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映画「おとなの事情(オリジナル版・イタリア)」

前回記事にて日本版の感想を述べましたが、その後オリジナル版との比較をしてみました。
何年も前に公開終了した映画を、家に居ながら検索・鑑賞できる、このあたりが便利な時代ですよね。
ちなみに鑑賞はこちらにて。

日本版ではっきり描かれなかった結末が、オリジナル版だと描かれていたりするかな・・・とも思ったのですが、それはそうでもなく。
(その場で結論を出したと思われる人物・場面もありますが)
こっちのバージョンも充分モヤモヤします。
あと、観客の気持ちをざわつかせるというか、抉ってくるようなヒリつき感はオリジナル版の方が上でした。

そして個人的には、日本版にはなかったセリフが最も印象に残りました。
(間接的にネタバレになりますが)

「今日カミングアウトしたのは僕じゃない、君達だ」

「カミングアウト」という言葉を、「世間に隠している自分の本性を明らかにする」という意味と捉えれば、まさにそうなのでしょう。
そして「本当に恥ずべき姿を晒したのはどちらか」という痛烈な指摘でもあり、重いです。
無自覚のうちに抱く差別意識や理不尽な悪意が、思わぬきっかけで露呈するというのは、他人事ではないというか、「他人事」として受け止めるべきじゃないんだろうな、と思います。
そしてこの「差別意識」を、日本版では露骨に描かずに割とポジティブな展開にしていたのも、社会の状況の表れでしょうか。
「日本の方が差別がない」という意味じゃなくて。
このご時世の映画(しかもコメディ)で、性的マイノリティへの酷い差別なんて描けないでしょうから、ね。

~ 以下、日本版と比較しての違い ~
※当然ですが役名・役者は両作品で異なるので、登場人物については職業やプロフィールで示します。

●全体的にオシャレ
 ―——室内の様子とか、登場人物の佇まいとか。
 なるほど、このイメージなら主婦役も常盤貴子だわ。 
 まあ、日本人にとってのオシャレ感≒ヨーロッパ的な雰囲気・デザインであることも否めないから、平凡なファッションでもお洒落に感じてしまうんでしょうね。

●パーティー会場は医師夫妻の家

―——日本版だと「新婚の夫が雇われ店長を勤めるカフェ」でしたよね。
セレブ家庭の自宅という設定でも(主に広さの面で)問題なかった気もしますが、イタリア版に寄せたビジュアルの部屋だと、家屋というよりカフェの方が合ってたのかしら。
それで気付いたけど、日本版もクツ履いてますね。自宅じゃなくてカフェだから。そこ重要だったのかな。
この設定の差によるのか、新婚夫の職業がカフェ店長なのも日本版のオリジナル。イタリア版ではタクシー運転手です。かなり仕事を転々としている模様。

●登場人物達は、日本版のように特別なきっかけで繋がった訳ではなく、普通の友人関係である模様。
―――この日に偶々来れなかった他の友達も居るようだし、もともと「このメンバーだけが共有する特別」がある訳ではない。
男性同士が昔からの友達で、配偶者も交えて付き合いが続いてる感じでしょうか。
ここについては、日本版だと「仕事やステイタス・年齢の異なるメンバーがホームパーティーに集う」ことに理由付けが必要だったのかな、とも思いました。あんまりそういう習慣がないからね。

●男教師は、パーティー不参加の友人も含めた仲間内で若干浮いた存在である模様。
―——「休日のサッカーに自分だけ誘われてない」というエピソードあり。
友達だけど、みそっかすな扱いを受けている雰囲気も微妙に滲んでいます。

●医師夫妻の娘は彼氏の家に初めて泊まるかどうかを迷っている。それを母に内緒で父親に相談し、父親は怒ったり引き止めたりせずに「自分で考えて納得のいく選択をして欲しい」旨を伝える。
―——ネットのレビューなど拝見すると、この場面・台詞が好評のようで、日本版で割愛されたことに対する否定的な反応も目につきました。
確かに心打たれるシーンでしたが、日本だとあまりにも一般的でないから、ちょっと違和感を与えてしまうかというのも、理解できる。
(あと、オリジナル版の流れだと日本のいろんな制約や関係者の意向をクリアするのが難しいんだろうなというのも・・・。だから丸ごと変更してるんでしょうね。これもある種の”大人の事情”)
お母さんに言いづらければお父さんに相談するとか、そこでお父さんが頭ごなしにならないとか、良い在り方だとは思うんですけどね。

●女医と新婚夫の不倫は最後までバレない。
―――不倫自体、劇中でも明確に説明される訳ではなく、2人の様子や小道具の使い方で暗示する形。
日本版でバレた後の展開が微妙だと思ったけど、独自設定だったんですね。
オリジナル版は最後まで隠し通されるぶん、表向きは最後まで「いい人」ポジションの女医が怖いというか、作品全体のうすら寒さを強めていると思います。

●新婚妻は、夫の愛人(女医とは別の)の妊娠を知るや、夫の母にその事を知らせて結婚指輪を置いてパーティー会場を後にする。

―――映画の山場の一つであり、ここは「明確な結論」を感じるシーンでした。
こういう風に女性がスパっと行動を起こすのは、日本版との対比がわかりやすい気がします。気質とか「常識」とか、社会背景とか。

●上記の流れで物語は終わり、登場人物達のその後の結論や行動は一切描かれない。
―——新婚妻と教師だけですね、「彼等の元を去った」ことが選択として描かれるのは。
ラストは、何事もなかったように和やかに解散する登場人物達のシーンがあるので、「え、水に流したってこと?」と少し戸惑ったのですが、どうやら「ゲームをしなかった=お互いの秘密を知らないままだった場合の仮想エンディング」という意味だったようで。
だから一見平和なパーティーの終わりなのだけど、裏では不倫が続いているし、諸問題は解決してない。(おそらくいずれバレるような話もあり)
それはそれで良しとはできないよな、と思わされる終わり方でした。

・・・ここまで書いて思ったけど。
平和なラストシーンが「仮想エンディング」と解釈してたの、逆にそっちが現実で、「もしゲームをしたら本編の展開が待っていたけれど、ゲームをしなかったから秘密を明かさないままパーティが平和に終わって皆解散した」という風に捉えることもできますね。
だとすると、この先続いていく未来もラストシーンの続きの方で、それって「ゲームをしてない人達の日々」=「秘密を明かさずに抱えたままの人達の日々」=映画を観終えた私達の日常 とも言えたりする?
・・・うっわ。怖
やっぱりオリジナル版の方がだいぶ奥深い(そして人を抉る)かも。


今回比較して思ったけど、本作に限らず、総じて邦画よりもヨーロッパ映画のほうが「行間を読ませる」傾向が強いんでしょうか。
本作の場合、両バージョンで基本的な筋立てが同じだから余計にわかりやすかったけど、日本版は全部セリフで説明しきっちゃう事が多い、と改めて感じました。

わかりやすくし過ぎて考える余地を与えないというか。
もちろん作品によるけど、個人的には懸念を憶える傾向ではあります。

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