【掌編小説】Pathfinder

流れの激しい川を下り、深い森を抜けて海原へぎ出たところまでは順調だった。
青々としたこずえの枝葉に覆われていた頭上の視界が一気に開けると、空模様は生憎あいにくの嵐。墨色の荒波がひと際高くうねり、灯台がそびえる岬に猛然と水飛沫みずしぶきが舞い上がる。灯台の尖塔めがけて雷光が瞬き、たちまちとどろいた低い鳴動は高いビルが下の階から崩落するかのようであった。空と海が反転したような錯覚に振り回され、冒険心におかされていた私の思考は、そこでようやく、航海を諦めるという極めて合理的な決断に至った。
岩陰に穿うがたれた洞窟へ逃げ込み、底板が今にも剥がれそうな小舟を慎重に陸地へ乗せ上げると、私はパドルと飲み水だけを持ってさらに奥へと歩いて進んだ。
旅、と呼べるほどの移動をするつもりはなかった。当初は、目的もなく周囲を散策する程度の心持で住処を出たはずだったのだが、道半ばで様々な人間と交流していくうちに、現実世界が思い描いていたものとは異なる様相を呈しているという面白い事実に気づかされ、結果として、私の躰は帰り道を思い出せなくなるほど随分と遠くまで来てしまったのである。
「おぉ……」
久々に放たれた私の声は、粗くえぐられた空洞の岩壁に反響しながら、迫り来るような暗闇の奥へと吸い込まれていった。
パドルで前方や足許あしもとつつきながら、慎重に足場を確認する。洞窟は海抜を下回って深まるが、一向に行き止まりに突き当たることはない。このような見知らぬ暗がりに足を踏み入れても、私は奥へ歩を進めることを躊躇ためらたちではなかった。
頭では解っている。入口付近で待機して、この嵐が過ぎ去るまで凌いでいるほうが確実に安全だと。泥濘ぬかるみに足を滑らせて、鋭く尖った岩に頭を打ち付けるリスクを考えると、不用意な一歩を踏み出すべきではないのかもしれない。だが、無意識の奥底から湧き上がる恐怖心をも凌駕りょうがする私の好奇心が、それを拒んだ。
歩いているのではなく、もはや歩かされていた。本来の私は臆病な性格であると自認しているにもかかわらず、たった一人でこれほどまで邁進まいしんできるようになったのはいつからなのだろうか。まるで、好奇心、という私とは別の何かが前方へ遠ざかっていて、その背中を追従しているみたいである。
こんなことになるなら、森を散策している道中のどこかでヘルメットを確保しておくべきだった。
頭上を警戒しながら、私は胸のうちでそう嘆いた―――その時だった。
腰を屈めて狭まった空間を抜けた先が、二手に分岐していた。右側は凪いだ水が満たしており底が見えず、左側は高度が上がっていく崖になっている。
しかし、私が驚いたのはそこではなかった。
右側に張られた水面に、緑色のヘルメットが浮かんでいたのである。
「誰かいるのか?」
私は囁いたが、失われた光の向こうから応答が返ってくることはない。だが、ここにヘルメットがあるということは、今は私しかいなかったとしても、以前に別の人間がここまで到達していたという事実の裏付けに他ならない。パドルを突っ掛けて引き寄せると、それは見紛みまがいようもなく、頭部を衝撃から防護するためのヘルメットであった。
ヘルメットを持ってくればよかった、と思った矢先に、ヘルメットを拾う。まるで、都合よく話を進めたいだけの物書きの意のままに操られているかのような、そんなあり得ない妄想が脳裏をかすめ、思わず口から嘲笑がれ出た。
私の人生は、私の物だと、そう思っている。今も、そう確信している。しかし例えば、実は私が小説の中だけに生きる架空の人間で、私を創り上げた作者の思い通りに身体を動かされ、脚本の台詞セリフを言わされているだけだったとしたら。私の人生における選択の一つひとつが、私の想像では到底及ばないような超次元的な存在によって選ばされているだけだったとしたら、これほど滑稽こっけいな思い違いはない。
ヘルメットを拾ったということは、左側の崖を登らせようとしているのだろうか。それとも、右側の水面に落ちていたということは、その先に何かがあるということを暗示しているのだろうか。もしくは、ここでヘルメットを手に入れて引き返す頃には、都合よく嵐が過ぎ去っていたりはしないだろうか。
考えろ。いや、この考えるという行為すらも、考えさせられているだけなのかもしれない。
「ふん、いいだろう」
これは、この世界の支配者への挑戦である。私はヘルメットを目深まぶかにかぶり、顎のベルトをがっちりと固定してひとつ息を吐いた。

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