【掌編小説】影溜まり

朝、タマキさんが寝室のカーテンを開けると、いくつも、ぽつぽつと、通りの端々に影溜かげだまりができていた。
「あれに近づいたらだめですからね」タマキさんは言う。「自分の影が吸われてしまうといけないわ」
「吸われてしまうのですか?」
「ええ、影溜まりにかれたら、身体が自分のものではなくなってしまうのです。ひどく醜い怪物に、成り果ててしまうのですね。ですから、むやみに近寄っては危ないので、今日はお部屋の中で過ごしましょうね」
タマキさんは寝室を出ると、居間へ移って朝食の支度を始めた。彼女の後に続いて、ぼくも寝室を出た。
昨夜、ボトボトと聞こえたのは、影の降る音だったのだろう。影は光を浴びると干上がってしまうため、昼間は身を寄せ合って、大きくなろうとする性質をもっている。だから、影の降りしきったその翌日には、夜には見られなった影溜まりができるのだ。
影が溜まる目的は判らない。実体を乗っ取るためではないかないか、という説が有力だが、水のように循環している単なる自然物質なのではないか、という説もある。タマキさんの口ぶりを観察するに、彼女は前者の説を強く信仰しているようだ。
向かい合わせで朝食をとるタマキさん。彼女とぼくは、とてもよく似ている。容姿も言葉遣いも、考え方も、とても。
しかし、影溜まりに関して言えば、ぼくは彼女とは異なる仮説を秘めていた。
「影溜まり、とは、一体なんなのでしょうか」ぼくは咀嚼そしゃくしたパンの欠片を吞んでから、口を開いた。
「文字通りですよ。影が溜まっているのです」タマキさんは答える。
その現象がなんなのか、という意図で訊ねたつもりだったのだが、タマキさんには伝わらなかった。
「朝食を終えたら、影溜まりに近づいてみようと思うのですが……」
「やめておきなさい」
「なぜですか」
「……体を、乗っ取られてしまいますよ」
「乗っ取られた人を見たのですか?」
「いえ、見たことはありません。しかし、学者や論者、作家、多くの博識な先生方が知恵を持ち寄って、現段階では近寄らないほうがいいだろう、と結論付けているのです。近寄らないに越したことは、ないのですよ」
タマキさんは淡々と受け応える。
まるでぼくと会話をしているみたいだ、とぼくは思った。
影溜まりというのは、まばゆい光に身を焼かれた者の「焦げ痕」なのではないか。あるいは、「夜の残り」のようなものなのではないか。ぼくは密かに、そのようなことを考えていた。
毎日、タマキさんは決まった時間を昼寝に割くものだから、ぼくはその隙を突いて外へ出た。
その矢先に、うごうごとうごめく影溜まりが近寄ってきた。“個性的”な、不自然な曲線で輪郭をかたどった、積雲のような形をした影溜まりだった。影溜まりは動きが遅いため、ぼくは距離をとって後退り、それでいて目を凝らして観察した。
とりわけ、嗅ぐことに注力してじっと観察した。焦げ痕なのであれば、においを知覚することができるであろう、そう考えたわけである。
日が傾くにつれて、ぼく自身の影も伸びてきてしまい、これ以上はいけない、と判断したところで、ぼくは再び家の中へと引っ込んだ。すると、目を丸くしたタマキさんが、玄関に立っていた。
「外へ出たのですか」タマキさんは低い声で言う。「影溜まりが干上がるまで外は危険だと、あれほど言っているのに」
「そうは言いますがね、タマキさん」ぼくは彼女をなだめながら、玄関の戸を閉めた。「あまり、悪いもののようには思いませんでしたよ」
それからというもの、タマキさんはぼくと口をきかなくなってしまった。影溜まりに関して、ぼくのとった行動が、発した言動が、見せた態度が、彼女には受け入れ難いものだったようだ。
その日の夜も、ボトボト、ボトボトと影が降った。
タマキさんのつくった晩飯と同じものを、ぼくもつくった。同じ見た目、同じ言葉遣い、同じ物を食べ、同じ空間で生活をしているぼくとタマキさん。しかし、影溜まりに対する考え方の齟齬そごが、二人の仲を引き裂いてしまったのであった。
夜の間に、タマキさんが眠りに就いたところを確認すると、ぼくは音を忍ばせて外へ出た。光のない夜中は影も霧散しており、影溜まりも見られない。ぼくは縁側に腰掛けて、その夜を、よくよく観察することにした。
すると、門扉もんぴの前に佇む街灯の下に、小さな影溜まりができていた。夜には見られないものだと思っていたから、心底ぼくは驚いた。
ぼくは門扉に近寄った。
「……子ども?」
不思議なことに、その影溜まりは、人間の子どものような形をしていた。ぼくが声をあげると、その子どもの影はぴくりと肩を震わせて、タタタッとぼくに駆け寄ってきた。
これはいけない、とぼくは身構えたが、子どもの影が街灯に照らされた光の輪から出てくることはなかった。夜はぼくの影ができないから、吸われることがないのだ、とすぐに解った。
「なぁ、おにいさん」
子どもの影はぼくに話しかけてきた。
「言葉が話せるのですか」
ぼくは一抹の不安を覚えたが、平静を装って返した。
「なんでもできるよ。おにいさんにできることも、それ以上のことも、なんでも、ね」
「そうですか。それは頼もしいですね」
「おにいさん、タマキさんとよう似とるなぁ」
「タマキさんを知っているのですか」
「タマキさん以外にも、お隣さんにも、この町の人はみんな同じ顔してはるわ」子どもの影は腰に手を当てて、溜息を吐いて疲れたように言った。「顔もやし、体型も、喋り方も、考え方も、ぜんぶタマキさんと一緒やん」
ぼくはそのことに関して、何も疑問を抱かなかった。
「そうですよ。当たり前じゃないですか。そのように教育されてきたのですから」
「はあ……、あのな、おにいさん含めてな、この町の人はもっかい、常識に成り果ててしまったもんを疑った方がええよ」子どもの影は滔々とうとうと語り出した。「下から持ち上げるのも、上から押さえつけるのも、光や。羨望も憎悪も嫉妬も、等しく強い光や。羨望からも憎悪からも嫉妬からも遠のいた世界で静かに生き長らえることができるように、教育はおにいさんから個性を奪い取ってしまった。強烈な光を浴びても大丈夫なように、おにいさんらは整えられてしまったわけや」
「悲しそうに言うのですね」ぼくは返した。「平穏に暮らせるに越したことはありません。何も嘆かわしいことのようには聞こえませんよ」
気づけば、子どもの影はだんだんと小さくなっていた。街灯の光を浴びて、徐々に干上がっているのだ。
わたくしらはな、光を浴びると干からびてしまう」子どもの影は喋っているうちに、だんだんと呼吸が荒くなっていく。「せやけどもな……、光がないと、姿も見えないんよ。やから、強烈な光のもとさらされても、存在を……なくしてしまわんように、他の影と合わさって大きくなるんや……」
「先ほどから、君の言っておられることの意味が、ぼくにはよく解らないのですが」何かを感じたわけではなかったが、ぼくは光の輪の中に腕を伸ばした。「君たちは、気づいてもらえるまで大きくなって、何をやっておられるのでしょう。君は一体、なんなのですか?」
子どもの影は、街灯の光に照らされて生まれたぼくの腕の影に、ゆっくりと手を伸ばした。
「おにいさんが今日までに失くした……ぜんぶや」

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