【掌編小説】暴風天使

また、ベランダに出た。
特に、これと言った理由はない。洗濯物を取り込むわけでも、煙草たばこを吸うわけでもない。だが、思えば俺は、自宅での大半の時間をベランダで過ごしているような気がする。
好きなのだ。ベランダという場所が。
外にいるのに、誰の眼からも外れていて、人間であることを忘れて動物のままをさらしていてもとがめられることがない。好きな植物を置いて、好きな動物を放して、好きな本を読んで、好きな人と共に話したり黙ったりする。
人間の世界が目指すべき最終地点は、このベランダのような箱庭なんじゃないか。そうに違いないとさえ思えるほどに、ここは無為むいで安らかな、どこか秘密基地じみた空間である。
ソファに座って、テレビを見る。ベッドに寝転んで、スマホをいじる。大半の人間が暇な時間をそうやって潰しているように、俺はベランダに置いた折り畳み式のベンチに横臥おうがするのである。
雷鳴が響いて、ふと俺は鈍色にびいろに淀んだ空の彼方を見上げた。
カラスが一羽、黒い羽根を忙しなくはためかせて飛んでいる。群れからはぐれて、迫り来る魔の手から逃げ惑っているみたいだ。
黒雲の合間を、青白い竜が這いずり回っている。人々は凶暴な竜の餌食えじきになどなるまいと、物陰に隠れて息をひそめている。ひとたび外に出てしまえば、においを嗅ぎつけた竜の放つ雷の矢に貫かれ、空の彼方へと攫われてしまうのである。
……例えばの話である。
そんな想像を抱かせるほどに、轟々と荒れ狂う空の下は深閑と静まり返っていた。
雨。霧に煙る、白い街。台風が近づいている、という情報を耳にしたのは、何日前のことだっただろうか。その時は、まだ太平洋沖に発生したばかりで進路の予測が曖昧だったが、街は今、猛烈な嵐に見舞われていた。
電線が奇怪な声をあげ、街路樹が音を立ててしなる。
さすがに、今日は部屋の中で過ごそうか。念のため、ベンチを部屋に撤収させたほうがいいかもしれない。
まさにそのベンチに寝転びながら、俺はそんなことを考えていた。

その時だった。
「……っ!」
わなわなと叫喚する雨風の中に、鋭い声を聞いた、ような気がした。
何事か、と思って、ベンチから起き上がろうと身じろぎをする。
だが、俺には瞬く時間も与えられていなかった。
衝撃。
重い。脇腹に激痛を覚えた。
脳裏に熱い閃光がほとばしる。降ってきた何かが直撃したのだ。
うめく間もなく、俺の身体はガラス窓を突き破り、ベンチもろとも室内に吹っ飛んだ。

カーテンのすそ足許あしもとかすめて、おぼろげな視界に色彩が戻ってきた。
視線だけで部屋を見回す。
吹き荒れる突風に、書類がひらひらと舞い上がっていた。窓ガラスが粉々に割れ、破片が床に散らばっている。本棚に詰まっていた書籍も、ドミノのように雪崩なだれている。ローテーブルが二つに割れ、絨毯が壁にへばり付いて、ビーズソファがなぜか玄関へと続く廊下に転がっていた。
全身が痛い。特に、背中と尻。壁か机の脚に強く打ちつけられたのだろう。だが、動かせないことはない。
でも、動けなかった。
何かの下敷きになっているのだ。
ベンチではない。それに、この感触は……。
俺はそれを退けようとした。すると―――
「待ちなさい」
不意に、腕を押さえられた。遅れて、し掛かっているそれが、声をあげたのだと解った。
「だ、れ……」
「静かに」
ようやく吐けた呻き声が、瞬く間に塞がれる。
不味い血の味が舌に滲んだ。
熱い息を、からだに吹き込まれる。
咽頭がグッと下がる。何かを、押し込まれるように飲んでしまった。
息苦しくなって咳き込むと、肋骨がミシミシと音を立てるように痛んだ。
その反動で、口が離れる。
「それ、あなたにあげます」
耳元で、女が吐き捨てるように言った。
そう、女。倒れる俺の上に重なっていたのは、知らない女だった。
キスをしていたのだ、と脳が遅れて気づく。
……何が、起きているのだ。
そこでようやく、その疑問が胸に落ちてきた。
首が持ち上がらない。腕も動かない。麻痺して力が入らないのか、女の力が超人的なのか、それすらも判然としない。
女は俺の首元に顔をうずめて、口で荒々しく呼吸を繰り返していた。
理解を置き去りにして、だんだんと事態が見えてくる。
この瞬間だけを切り取れば、俺は今、馬乗りになった女といかがわしい行為をしているように見えなくもない。あり得ない状況下にいるのに、極めて人間的で浅はかな思考が脳裏を過る。
しばらく、俺は女の顔を視認することもできないまま、木の葉やら紙やらがぜに浮かぶ天井を茫然と眺めていた。

突然、吹き荒れていた風雨がピタリと止んだ。
それとほぼ同時に、ふっと身体が軽くなる。女の身体が退いたのだ、と遅れて気づいた。
不思議な感覚だった。起き上がるには、重力の働く下方向を押すように、ぐっと力を込めなければならない。だが、女の下敷きになっていたはずの俺は、一切負荷を感じなかった。まるで、女の背中が天井側から引っ張られたかのように、すっと女の重みが抜けていったのだ。
ズキズキと痛む脇腹をさすって、なんとか俺は上体を起こした。
眩しい。眼の奥を刺すような、痛い光が差し込んでくる。
俺は目をすがめて、窓の外を見遣みやった。
晴れている。
一点の曇りもなく、底を突き抜けた快晴の青が空をならしていた。先ほどまでの暴風が嘘みたいに、スイッチひとつで世界が切り替わってしまったような、そんな錯覚におちいる。
台風の目にでも入ったのだろうか、それとも―――黒装束を身にまとった、この女の仕業だろうか。
肩の下、鎖骨あたりまで真っ直ぐ垂れた長い黒髪。仄暗い光を帯びた、透明な瞳。筋の通った細い鼻に、艶めいた薄い唇。薄気味悪く、悪寒を覚えるほどに、端麗で人間離れした顔立ちである。それなのに、美しい、とは到底思えなかった。
「何が……、」
口が何かを言いかけた。でも、それは言葉にはならず、俺は目を見張った。
液晶に穴が開いて、コードが千切れ、壁を貫いて突き刺さっているそれが、かつてテレビだった物だ、ということはかろうじて判る。猟奇的な強盗にでも押し入られたのかのような、荒れに荒れ果てた部屋。粉々に割れた何かの粉塵、散り散りに破れた何かの破片。どこに何が置いてあったのかも、もう思い出せない。
東京、都心のワンルームマンション、その十五階。この惨状に、近隣住民が気づかないはずがない。だが、隣人の気配はないし、悲鳴やパトカーのサイレンが聞こえてくることもなかった。
女は、ひどい傷にまみれていた。
瞼や頬は赤く腫れ、素足には紫に変色したあざ。装束は所々が裂け、青白い肌が覗いている。
しかし、俺が驚いたのは、そこではない。
「立てますか? 人間」
手を差し伸べてくる女。
その背中には、漆黒の翼が生えていた。

……例えばの話である。
そんな展開が起こってもおかしくなさそうなほどに強まった台風を前にして、俺は折り畳んだベンチを担いで、そそくさと部屋の中へと戻った。

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