【掌編小説】未来で聴かせて

朝、目が覚めた時、穏やかな心地だった。
私は胸を撫で下ろした。いや、普段から別に荒れてはいないのだが、いつもなら忙しない日常を前に、少なからず波風が立っているものだ。しかし今朝は、そのようなたかぶりも憂いもなく、光の粒をよどみなく照り返す水鏡みかがみのようにいでいた。
うつらうつらと揺れるまなこしばたたかせ、私は枕に顔をうずめたまま、猫みたいに背中を反り返して弛緩しかんした。
咳き込むと喉にたんが絡むし、鼻詰まりもひどい。体温を測ると、やはり微熱もある。完全に夏風邪である。それでも、倦怠けんたい感や頭痛はないし、動き回るぐらいはできそうだ。
……と、自分に言い聞かせる。
できるよな? となんとなく脅してみたりして、私はベッドからナメクジのように這い出た。
カービィのピンクTシャツに、デニムの短パンを穿いて、 知らない球団のロゴマークの刺繍ししゅうがあしらわれた野球帽をかぶる。姿見でダサい自分と向き合って納得し、それからり切れそうなビーチサンダルに足を通して、私は夏への扉を力一杯に押し開けた。

その友人の墓へは、毎年、数珠じゅずとグローブを持参するのが恒例となっている。
連絡をとり合うわけではない。でも、この日の昼前に彼女が眠る墓へ行けば、お馴染なじみの顔が集まっている。お互いに示し合わせたかのように、もしくは、彼女に呼びつけられたかのように。
「お、メタモン来た」
境内けいだいの奥に構える本堂の裏手に回ると、シオリの小さな声が蝉時雨ににじんだ。
「カービィです!」
「そのノリ今年で何回目だよ」
言い返す私に、カンが腕を組んだままニヤついた。
シオリ、カン、そして私。ここ数年は、彼女の命日に合わせて合流できるメンバーはこの三人である。
学生だった頃は、それこそクラスメイト全員で墓参りをしていた時期もあったが、成人して社会人になると、各々の都合が判然としなくなってくるものだ。生活環境が変わって、だんだんと疎遠になれば、直接墓へおもむくことが難しくなってしまう人も当然いるだろう。もう行かなくてもいいか、と判断した友人も中にはいるかもしれない。だからこそ、グループラインを作って無理に誘うような連絡は取り合わないのである。
余計な詮索せんさくをし合うような面倒な仲ではない。来られた人だけで、来られなかった人たちの分まで彼女に挨拶をすれば、それでいいのである。
「掃除、もうしたんだ」
「いや、まだだ」
「うちもカンも、タッチの差で来たとこだよ」
「ああ、そうなんだ」
それにしては、周りの墓に比べて、彼女の墓は落ち葉が掃かれ、やけに小奇麗に整えられている。
ということは、一足先にあの人が来ていた、ということだろう。墓前の花立はなだてには水が注がれており、遠慮がちに、白い百日紅さるすべりの花が挿してあった。
私とカンは手桶ておけ柄杓ひしゃくをお寺さんからお借りして、墓石に水を掛けながら、ブラシで汚れを掃除した。
「こういう落ちない苔とか、高圧洗浄機でピッカピカにしたいなぁ」
しきりにブラシをこすり当てながら、カンが悔しそうに呟いた。
「いや先祖全員跳び起きるわ」
「いやそんなことより鼻声気になるわ」
私のツッコミに、鬼灯ほおずきの枝葉を剪定せんていしていたシオリのツッコミが覆い被さる。
「ツッコミ好調なのに、体調悪いとかもったいねぇな」
そう言って、カンが笑った。
「ごめんって」
私も笑った。

そんなふうにして、柄杓を片手に変わらない雰囲気で雑談を交わしていた時だった。
「……よぉ」
背後から声を掛けられた。十中八九知り合いなんだけど、後ろ姿だからまだ確証をもてない、でも間違いなく知り合いだろう、という心境で発するような、絶妙な声色だった。
三人の視線が一斉に声の主へと向く。
「おぉ、カズ」
「カズシ!」
背後には、しばらく顔を見ていなかった友人、カズシが立っていた。
「……久しぶり」
ポロシャツにジャージ、クロックス姿のカズシは左手を上げて、困ったように眉をひそめて笑った。しばらく会っていなかったから、記憶と比べて随分と雰囲気が違うが、その立ち居住まいと面影は見紛みまがいようもなくカズシだった。
三、四年ぶりぐらいだろうか。墓参りに毎年来れるメンバーがシオリとカンと私の三人になる前までは、カズシも毎年欠かさず来てくれていた友人の一人だった。
「久しぶりー!」
今年は予定を空けられたのか、と思って声を掛けると、なんとなくシオリとカンの雰囲気がぎこちない感じになっていた。
「掃除しようぜぇ」
努めて気にしていない様子のカンは、飄々ひょうひょうとした口調でのんびりと言う。
が、シオリは何かをひた隠すように唇を引き結んで、強張こわばった微笑を張り付けていた。
「おう」
カズシの反応も、なんだか上辺だけだった。
明らかに気をつかっている。たった三、四年でそんな他人になるほどの仲だっただろうか。そんなことを思いながら、私はカンに、眼差まなざしだけで「何かあったのか?」と尋ねた。
私が本当に何も知らないことを察してくれたのか、カンはわざとらしく目をすがめて、お寺の裏門のほうを見やった。
その視線を追うと、楼門ろうもんの日陰に、二人のワイシャツ姿の男性が立っていた。一人は柱にもたれるようにして腕を組み、もう一人は直立したまま後ろで手を組み、何やら神妙な面持ちで話し込んでいる。眼を凝らしてしばらく二人を眺めていると、彼らは気張ってこちらの様子をうかがっているように見えなくもなかった。一見すると、会社の上司と部下が休憩の合間に墓参りに立ち寄ったかのような、ありふれた何気ないやり取りに見えたが、どうやらそうではないらしい。
物騒。日常ではあまり遭遇することのない、どことなく物々しい空気感だった。
「仮釈放、的な?」
カンがさらりと尋ねる。
カリシャクホウ。意味はなんとなく知っているが、耳慣れた単語ではなかった。
「……ああ、ちょっと違うんだけど、まぁ、そんなところだ」
カズシの苦虫をつぶしたような横顔を見て、私はようやく理解が追いついた。

墓石の水鉢みずばちに、一匹の小さなアオガエルがいるのには気づいていた。手に持っていた柄杓のの部分でその尻をつつくと、アオガエルは瞬く間に隣の墓石の陰へと跳び去っていった。
「え、何カズシ、捕まってたの?」
「直球だな」
墓石に水を掛けるカズシに私が尋ねると、カンが横で笑った。
「え、ごめん。まずかった?」
「いや、いいよ。むしろ助かる」
カズシは乾いた声をあげて、私たちに向き直った。

シオリが花立に鬼灯を挿して、すでに供えられていた百日紅との見栄えを整える。
カン、シオリ、私の順番で墓前の敷石しきいしに立ち、私たちは一人ずつ、彼女と挨拶を交わした。
「数珠、持ってないだろ?」
「ああ、悪いな」
カズシはカンから数珠を受け取ると、墓前で小さく一礼してから、敷石の上に立った。彼が手を合わせている間、シオリはその背中を静かに見つめ、カンは本堂の石垣に背を預けて目をつむっていた。
私は、空を眺めていた。
はなだ色の遠い空に膨れた綿雲がみなぎり、その合間から線を引くように、一粒の飛行機が滑り降りてくる。
視界に迫る夏空は、どこか色褪いろあせて見えた。
静謐。淋しく、そして、果てしなく安らかな場所である。こんなにも、いのちをまとった色彩が弾けているのに、その喧騒が遥か遠くに感じた。
思い出だけが、苦しくなるほど鮮やかに、脳裏に焼き付いている。
あの頃と同じ服を着て、あの頃と同じようにアオガエルとたわむれて、あの頃と同じ風を嗅いでいる。彼女と毎日毎日飽きもせず遊んでいた時と同じ恰好をしても、どこかしっくりこないのは、どうしてだろう。
あの頃は、本物だった。
でも、今は、決定的に何かが違う。
大人になる日なんて一生来ないと、本気でそう思っていた。私たちは、大人になってしまったのだろうか。
この日のこの瞬間だけは毎年、変わらない景色を目の当たりにしては、同じことを思わされている。
三機目の飛行機が雲間から姿を現すとほぼ同時に、カズシが彼女と話し終え、ようやくこちらに戻ってきた。
「よし、じゃあ、行くか」
リュックからグローブを取り出したカンの一言で、私たち四人は住職さんに軽く挨拶をして、お寺を後にした。

お寺の向かいには、路地を一本挟んで、大きな緑地公園が広がっている。
「ちゃんとぉ……、反省してんのかぁ!」
勢いよく肩を回したせいで頭がぐらりと揺れ、かぶっていた野球帽が脱げ落ちた。
私は二、三歩よろめいた。大きく振りかぶって投げた軟式のボールは、見事な放物線を描き、明後日の方角へと飛んでいく。
「おーい!」
あきれたように濁声だみごえをあげて、ボールを追いかけていくカズシ。
グラウンドの中央では、少年サッカーのクラブチームが練習に励んでいる。そこの練習生の少年がボールを拾って、カズシに投げ渡してくれた。
「カーン!」
カズシは少年と一言二言交わした後、振り向きざまに大声でカンの名前を叫んだ。
そして、そこから思いっきり遠投でボールを返してきた。
カンはグローブをめた右手を空高く上げると、そこから一歩も動くことなくボールをキャッチした。そして、優しくシオリへ投げ渡す。
「すげぇ、全然鈍ってねぇな」
走って戻ってきたカズシに、カンが言う。
「おいノーコンメタモン!」
「しょうがないじゃん……、この日のためだけに、グローブ持ってるんだから……。はあ……あと……、カービィですぅ!」
私は拾い上げた帽子をかぶり直して、唇を尖らせた。
「いやフラフラじゃねーか」
私に向けてシオリがそう言って、ダーツの矢を投げるように、曲げたひじをえいと伸ばしてボールを放つ。
「ああ、肩死ぬ……」
構えたグローブにスポッと収まったボールは、弾かれてグラウンドにポテッと落ちた。
「エラー!」
実況口調のカン。
墓参りの後に、緑地公園のグラウンドでキャッチボールをする。思えば、カズシが最初に言い出したことだった気がする。だんだんと人数が減ってきても、三、四年間言い出しっぺがいなくても、私たちはずっと同じ時間を過ごしてきた。
そして、その言い出しっぺが犯罪者になって戻って来ても、やっぱり私たちは今日、ここでキャッチボールをすることを選んだのである。

「悪い、ここまでっぽいわ」
シオリと私の息が上がってきた頃、カズシが手を合わせて謝った。
彼の背後から、あの物々しい二人組の男が近づいてくるのが見えた。
「……あと何年だ」
カンが問う。
「……三年とちょっと」
カズシが答えた。
これだけの二人のやり取りを聞いて、カズシに課せられている残りの懲役期間の話だと解る一般人は、おそらくこの世で私たちだけだろう。
「えぇ、ながぁ……」
私はカンにボールを投げた。
ほんの一年前までは、打ち込まれたプロンプトを解析してコンテンツを生み出す生成AIの存在など、認知すらされていなかった。三年とちょっと先、私たちの世界はどれだけ変わってしまっているのだろうか。少し考えただけでも、背筋に戦慄が走る。
「大丈夫、俺、模範囚だから」
「誇れねぇよ」
カンがカズシにボールを投げる。
今日生み出された道具が、一年後には使い物にならなくなっている。日に日に目覚ましい発展を遂げる科学技術に振り回されて、明日を考えるにしても気が滅入るばかりである。
「ははっ、だよな……。なぁ……、シオリ」
カズシがシオリにボールを投げた。
「……何よ」
ボールを受け取って、シオリが低い声で訊き返す。
「……ごめんな。いろいろと、迷惑かけて。三年後、出られたらさ、また俺と―――」
カズシの言葉をさえぎるように、シオリが彼にボールを投げ返した。
「出てきてから言え」
「……悪い」
カズシはぽつりと呟いて、私に下投げでボールを放った。
おどおどしながらも、なんとかこぼさずにそれをキャッチして顔を上げると、カズシは身をひるがえして、迫る二人組の男性の元へと自ら足を踏み出した。
「ちゃんとやれよっ!」
カンは、初めて叱咤しったするように声を荒げて、遠のいていくカズシの背中に叫んだ。
カズシは一瞬だけ振り返って手を挙げると、そのまま立ち止まることなく去っていった。
「……バカ」
「……よし、ちょっと早いけど、いつもの喫茶店で昼飯にするか」
「だね」
カズシから受け取ったボールをカンに返して、私たちは反対方向へ歩き出す。
移ろいゆく時間に押されて、世界に生きる私たちは、あらがいようもなく変化を強いられる。それでも、抗ってでも変えてはならないものだって、ここにはあるのだ。
突風が吹いて、前を歩くシオリの髪がふわりとなびいた。その頬がほのかに赤いのは、この暑さのせいだろうか。
帽子が飛ばされてしまわぬように、私はそっと頭に手を添えてうつむいた。



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