プロメテウス

 国民年金を前納一括で支払ってすっからかんになった口座から、かろうじて残っていた千円札を三枚ほど引き出して財布に突っ込み、彼女はさも余裕と気品を兼ね備えたご婦人のような足取りでしとやかに銀行を出る。

 四月は特に金がない。ふとそう思ったが、別にそんなことはなかった。五月だろうが六月だろうが、ないものはない。きっと、大晦日の翌日が十三月一日だったとしても、彼女の口座に金がないことに変わりはないのだろう。夏と秋の間に「獄」が、冬と春の間に「凍」が一つずつ追加されて、「新年」も合わせて四季が七季しちきになったとしても、彼女の口座に金はないはずだ。

 新春夏獄秋凍冬。おお、なんか、新春シャンソンショウっぽい。
 いや、そうでもないか。何度か声に出して言ってみたけれど、最初の「新春」だけだった。

 ひとつ溜息を吐く。ふう、ではなく、はあ、でもなく、はーあ、のほう。

 どうしてこんなにも金がないのだろうか、と首を傾げながら、嵐の過ぎた晴天の下を歩く。深刻な面持ちなのは暑いからでも体調が悪いからでもなく、あれだけ働いて溜めていた金が水泡の如く消え失せてしまうことに対する不可思議について、純粋に考えを巡らせているからであった。

 頭の回転は鈍いが、身体は無駄に早足である。銀行から十歩も離れれば、もう淑女のような余裕はない。真夜中の住宅街で彼女の前を歩く人は、背後から追われているのではないか、といぶかしんで、曲がらなくてよかった角を曲がってしまう可能性がある。それぐらい、のっぺりと肩を揺らしながら、それでいて顔の位置は微動だにせずスタスタと歩いている。

 通りかかった小さな公園に人気ひとけはなく、砂場ではスズメが戯れていた。気づけば冬の影は跡形もなく季節の変わり目に紛れてしまい、月日は春の音を聞く間もなく夏へと転がっていくようだった。あんなにきれいに咲き誇っていた桜の花は、今や歩道に汚らしく散らばって、行き交う人々の靴に踏まれて土色にかすれ、なんとも見るに堪えない無残な有り様と化している。

 細くて短い、おもちゃみたいな橋を渡る。おもちゃのように見えるのは、欄干の水色のペンキが塗り直されて真新しくなり、わざとらしさが復活したからだろう。

 思えば彼女は、古びて色落ちしたおもちゃというものを知らない。買ってもらった瞬間が一番嬉しくて印象に残っているし、遊び尽くして飽きるころには新たに買ってもらったおもちゃに目移りしてしまっている。たとえそれが譲り受けたおもちゃであっても、手に取ったその時点での色というのが、彼女にとっては一番新しいものだ。そのため、「おもちゃ」という言葉それ自体は常にピカピカと光り輝いていて、色褪せることなく脳裏に焼き付いているのであった。

 昨夜ゆうべ町を襲った雷雨のせいか、いつもは干上がっている人工河川だが、今日は珍しく水量が増して、一丁前に川らしく流れていた。この町に引っ越して五、六年ほどが経つけれど、川床に棄てられている高そうなロードバイクは回収されることなく沈んだままである。橋の下の護岸で暮らしていたホームレスの爺さんは、三年ほど前にどこかへ行ってしまったというのに、あの自転車だけはずっと残っている。

 絶対に上等なロードバイクだ、と彼女は睨んでいる。真夜中に盗んで自転車屋に売り飛ばしてやろうか、と企んで、一度だけ計画を実行に移す寸前のところまで練っていた。けれど、思い立った日が今日みたいに雨後で流れが激しかったために、それっきり気が滅入って挑戦していない。着古した水着を着て自転車を盗んで、売った金で新しい水着を買おうというところまでは頭に描いている。川も綺麗になって、彼女も水着が買えて、役所の手間も省けて、一石三鳥の良い計画だと思っている。もしかしたら、自転車屋も修繕したり部品を分解したりすることで儲かって、一石四鳥、五鳥かもしれない。

 良い空だったから、二枚だけ写真を撮った。突き抜けた青一色の壁紙みたいなものと、雲を画角に入れてちゃんと空だと判るものと。どこかへ投稿するわけでも自分で見返すわけでもないが、スマートフォンのカメラロールには似たような空の画像しかない。

 歩くのが億劫になってきたところで、ちょうど目先のバス停に市バスが停まったから、乗ることにする。でも、家の最寄り駅に近づくにつれて、たった数駅で二百円ぽっちを失うのがだんだん勿体ないことのように思えてきた。それで結局、当駅を過ぎるどころか、そのまま意地を張って終点まで降りなかった。ワンガリ・マータイ。

 彼女が海外生まれ海外育ちであることは、いつかどこかで話しただろうか。ああ、彼女、というのはマータイ氏のことではなく、国民年金が一括で引き落とされて金欠の彼女のことである。

 この国に移ってからというもの、バスやタクシーの運転が凄まじく丁寧であることに彼女は驚いている。故郷では、急発進急停車は当たり前、黄色信号ですっ飛ばすし、曲がるときは減速が甘いから掴み棒に手や頭をぶつけるのが日常茶飯事だった。幼稚園児ぐらいの少年少女たちも、馬鹿騒ぎしながら車内を駆け回ることなく大人しく席に座っている。それらの倫理観を初めて目にした当初は、軽い天変地異が霹靂へきれきとなって脊髄を貫いたほどだ。

 六十五歳まで生き長らえたいと思えるほどの気力やら欲望やらが微塵もないという意味で、今この瞬間に持っていたい大金を失ったばかりの現状は、彼女にとってそこそこに厳しい。そんな中で思考をぼうっと回していると、このまま地下鉄に乗ってどこかへ行ってしまうのも悪くないような気がした。

 大丈夫だ、と彼女は自分に言い聞かせる。ついでに、わたしは社会適合者だ、と頭の中で呟いてもみる。わたしは社会適合者だ、わたしは社会適合者だ、わたしは社会適合者だ……。

 一週間もすれば、給料が蝶のように羽ばたいてきて口座に入ってくる。そこから家賃が引かれて、公共料金が引かれて、なんちゃら税が引かれて、食費とスマホ代が引かれていく。ただ、延々と、これを繰り返す。

 当てもなく地下鉄に乗ったところで、せっかくの休日なのだから水族館か動物園にでも行こうか、と思い至る。隣町にある水族館の入館料を調べて、交通費を算出してみて、全然大丈夫そうじゃないことを悟り、彼女はマスクの下で仏のように笑った。

 大丈夫だ、ということにして、水族館まで行く決意を固める。しかし、いやいや、と日和ひよって数駅先にある爬虫類館へ足を運ぶことにした。事あるごとにこの流れになっているような気がするのは、たぶん思い違いではない。それに、爬虫類館はなぜか水族館よりも入館料が若干高いため、それを交通費も含めて差し引くと、もしかしたら水族館まで赴いても総支出額はトントンなんじゃないか、という感じもしている。

 また意地を張って終着駅まで行ってしまうと、本当に帰ってくるのが面倒になってしまうので、ちゃんと爬虫類館の最寄り駅で降りる。改札を抜けると電子マネーから数百円が引かれて、残高で帰りの電車賃を払えないことに気づき、先ほど財布に突っ込んだ千円札のうち一枚をチャージに使った。そうすると、爬虫類館の入館料で残り二枚を失うはずだから、つまり、ああ、今日は昼ごはんを抜かなければならなくなった。

 世間的には平日の昼時で、フォーマルな服装に身を包んだ面々が飲食店を目指して忙しなく歩いていた。どこかの新興宗教団体が集金活動に励んでいる駅前から爬虫類館までの道筋はカット、みたいな瞬間移動の魔法が実際に使えたらいいのに。教祖様でも預言者でもない彼女は、物理でしか動けない。

 受付に座っているのは、リス顔なのに低音イケボの、同年代か少し年上だろうかといった具合のお姉さん。餌やりのタイミングでフトアゴヒゲトカゲを愛でるときだけは声が二オクターブ高くなり、リスらしくなる。実は五歳ぐらい年下なんじゃないかと思ったりもするが、女の年齢というものは、女から見てもよく判らない。何作品か、趣味で書いている小説のモデルになっているが、そのことをわざわざご本人に打ち明ける必要はないだろう。

 お姉さんに千円札を二枚渡して、切符と引き換えに館内へ入る権利を貰う。自身の本日の餌代になるはずだった金で、爬虫類の皆々様に何か良い物がもたらされますように、と祈りを込めて彼女はゲートを抜ける。

 休日は家族連れでそこそこ賑わう爬虫類館だが、平日の昼間は混雑していなくて素晴らしい。大きなリクガメが放たれている広間を時間の許す限り独占できる日だってある。なぜ世間一般では土曜日と日曜日で二連休が常識とされているのか、彼女には理解不能である。みんなで揃って休んでも、一斉に出かけることになるのだから、遊ぶ場所はどこもかしこも渋滞していてかなわないというのに。

 金がないと言っているのに、ボックスに百円を投入して小松菜を買ってはリクガメに与える。紙コップに数束の小松菜が入っているだけの商品が、市バスの運賃の半分に相当することに毎回愕然とするのだが、隆々と歩き回る巨石のようなリクガメたちの愛嬌と迫力が付加価値になっているのだから当然であり、何も問題ではない。医療介護など受けずとも優に百歳まで生きる命なのだ。たくさん食べて、もっともっと大きくなってもらわねば。

 何度も来ているから順路になど従わず、縦横無尽に館内を巡る。両生類コーナーやアマゾンの巨大淡水魚水槽なんかもあり、半日ぐらいは余裕で楽しめる。イグアナ、ヘビ、トカゲ、ヤモリ、ワニ、夜行性だからなのか、人間に懐くことなどないからなのか知らないが、肝心の爬虫類はどいつもこいつも動かない、やる気がない。

 休日のピークタイムに訪れると、餌やりショーで躍動する彼らが見られるが、その分人間も多いから行かない。二十代中盤の女が一人でリクガメと触れ合っている光景は、特に建前を覚えていない子供の眼には大変不思議に映るらしく、動かないヘビを見つめているときとまったく同じ眼差しを向けられるから、土日に仕事を休めてもここには来ないと決めている。

 子供の親やじじばばはもっと最悪だ。今時の二十代の女、特に、平日の昼間に一人で爬虫類館に来るような女は、みんな風俗嬢かパパ活女子だと思い込んでいやがる。平日でも客は彼女以外に数組いて、子連れとすれ違う際に大人のほうから向けられる視線には、彼女のことを水商売人ではないかと値踏みする色が滲んでいて、納得がいかない。今わたしのこと娼婦だと思いましたよね、と次にマダムとすれ違ったら聞いてみようかしら、と彼女は一瞬だけ思う。

 ランニングパーカーにスウェットを合わせるとニートだと思われ、身体の曲線がはっきりと浮き出てしまうニットを着ると風俗嬢かと思われる。とはいえ、そんなことはまぁどうでもよくて、彼女が幼少期から親を含め人間との信頼関係構築にことごとく失敗してきたというだけの話で、単なる思い込みに過ぎないということも重々承知しているつもりである。

 しかし、声を大にして断っておくが、彼女は人間“も”好きである。

 もう一度だけリクガメの放し飼い広間へ戻り、飯をくれる人間が少なくて淋しかろうと、再び百円を投げ入れて小松菜のカップを買う。このホモ・サピエンスのメスは、自身の命を繋ぐ餌代が枯渇しかけているという事実がどうにも理解できないらしい。

 猛スピードで足元に寄ってきた小さなメス。それに圧し掛かって、盛りながらのしのしと小松菜を喰らうオスのアルダブラゾウガメを見て、彼女は思わず遠い目になる。口からよだれがぼたぼたと垂れて、鼻の穴からふんふんと煙が噴き、八つ当たりのようにむしゃむしゃと小松菜が噛み千切られていく音だけが広間に木霊こだました。

 マスクで隠れているものの、血だらけの唇を舌で舐めながら、暮色に染まり始めた空の下、今度こそ帰途につく。

 彼女には唇の皮をく癖があった。痛いし、腫れるし、良いことなどひとつもない、悪い癖である。

 血を飲みながら、考える。どうして、こんなにも財布の風通しが良いのだろうか、と。一応、知性を武器に地上にのさばるホモ・サピエンスの一員であるにもかかわらず、哀しいかな、彼女の大きな頭に埋まっている脳みそは鳥未満、マンボウ未満のようだ。

 駅まで戻る。新興宗教団体はまだ集金活動に励んでいた。

 金がなく、酒にも煙草にも賭博にも手を出さない代わりに、しっかりとポルノ依存が加速している彼女が真っ直ぐ帰宅しても、やることと言ったらひとつと決まっているため、意識して寄り道をしなければならない。

 そう、せっかくの休日。このまま家に戻っていいわけがないのだ。銀行から現金を引き出すためだけに家を出たのだって、休日に家に引き籠っていては鬱まっしぐらだからである。バスで自宅の最寄り駅を乗り過ごしたのも、爬虫類館まで足を遠のかせたのだって、何パーセントかはポルノ依存脱却を目的とした行動計画の一端であった。

 カフェイン依存症からは脱却したと思われる。カフェインというより、ピンクモンスターの沼に囚われた時期が数ヶ月あるという話だ。コーヒーは美味しいから毎朝飲むが、夜眠れなくなったり、禁断症状が出たりするほど浴びはしない。

 行き当たりばったりで徘徊するのが趣味の彼女には、とりわけ好きな場所があった。

 本屋である。

 遠足の終わりには、たいていどこかの本屋に吸われる。自ら足を踏み入れるのではない。抗おうとしても、すうっと身体が吸われてしまうのだ。ほんとのほんと、嘘じゃない。

 鳥頭の彼女は烏帽子えぼしを被っているわけではないが、電子マネーに千円をチャージしたことで途中下車できることに気づいて、爬虫類館と自宅の中間の駅で意気揚々と電車を降りる。そして、労働契約を結ぶために油屋の最上階へ赴き、経営者である魔女に「おいでな」と手招きされて引き寄せられる白緑ボーダーシャツを着た少女の如く、駅前のモールの中に入っている大きな書店に吸い込まれるように入っていく。

 最近、ここの書店は小説と漫画の売り場の規模感が逆転したらしい。以前までは入ってすぐのところに小説がうずたかく積まれて平売りされていたのだが、今ではツインテールの白髪エルフと星のカラコンをつけた女がその位置を独占している。

 ああ、こっちのピンク髪の少女と白緑ボーダー髪の男は知っている。アーニャと千空だ。三十世紀半以上もの時空を超えてよみがえったこの千空という男は、千尋が千になったのを引き継いで白緑ボーダー髪をしているのだろうか。そんなわけがない余計なことを考えながら、漫画コーナーを横切って奥に押しやられた小説売り場へと足を運ぶ。

 漫画はキャラと世界観の基本設定、物語の始まり、それからターニングポイント、あとは結末だけ判ればいいと思っているのだが、たぶん勿体ない追い方をしているというのは一応頭の隅に置いておいてやることにしよう。高校の四年間を過ごした叔母の家にあった進撃の巨人と鋼の錬金術師、それと寄生獣、ヨルムンガンド、サマータイムレンダ、PSYCHO-PASSシリーズあたりはちゃんと完結して面白かった。

 酒飲みヒステリックの母とは異なり、気高き独身貴族の叔母の家は書籍の宝庫だった。どうして姉妹でこんなにも性分が別れるのか、本当に不思議なほどに。海外生まれ毒親元育ちというのは、まだまだ単一民族国家のこの国では結構珍しいことだと思う。

 そんなことはどうでもよくて、小説コーナーの新刊文庫本をチェックしていく。それがし貧乏なことこの上なきゆえ、単行本は文庫化するまで待つべくスルーするなり。

 音楽でも絵画でもそうなのだが、生み出された作品それ自体を好きになることがほとんどなので、生みの親である作家はあまり認知していない。叔母の本棚にあった作家の名前は、今もこうして書店を歩き回っていると目につくことがあるが、たいていはタイトルか表紙に惹かれて手が伸びる。人からおすすめされる作品があまり刺さらないということも、最近になってなんとなく解るようになってきた。

 古本コーナーに入る。一冊手に取って、パラパラとページを流す。女の着物を脱がすのに三ページも費やすあの人の代表作を立ち読みしている隣の客に、この女は速読をしているのだろうか、と思わせる。実際は趣味で書いている小説に使えそうな文豪っぽい表現がないか探しているだけで、ストーリーはまったく把握していない。書架に戻して、また一冊手に取って、パラパラめくって、また戻して、しばらくこれを繰り返した。

 しかし、ここで一冊買ってしまえるほど阿保ではない。金がないと散々言っているにもかかわらず、今日は随分と散財してしまったという実感はあった。拝借してオマージュできそうな奇麗な一節を二つ三つスマホにメモして、彼女は何も買わずに書店をあとにした。

 三度みたび地下鉄に乗り、今度の今度こそ帰宅を決意する。

 住宅の前を通り過ぎるとき、彼女は必ずと言っていいほど表札に一瞥を流す。ネット検索だけでは探し当てれないような珍しい苗字や、次に書く小説の人物に似合いそうな苗字を探すのが、彼女の密やかな習慣でもあった。

 すっかり日の暮れた空の下、帰宅。カップ焼きそばとサラダで夕食を済ませる。自炊と即席のモチベーションの振り幅が大きく、今週は百パーセント即席ウィークであった。

 夕食を終えたら、朝からベランダに干していた洗濯物を取り込んで、それから執筆を始める。

 書き途中の小説、日記、愚痴、詩……。世の中に流すのは、もっぱら小説に限られる。ついこの前まで書いていた五万字は、今の自分に「おもしろくない」と烙印を押されてふっと消え失せた。ご愁傷様。

 今日やったこと、あったことを思い起こす。小説っぽく文章を繋げてみる。プロットなんて二度手間だから用意しない。鳥頭の中で整理して、一気に書き上げてしまう。おもしろくなかったらボツ、あれも、それも、全部ボツ。

 まだ当分は死にたくないが、そう長生きもしたくない。なんか、グダグダとのたうち回って、キリのいいタイミングでふっと対岸へ渡れたら最高だ。そのときになったら、今まで生み出してきたがらくたは、自分の身体と一緒に跡形もなく燃やしてしまおう。

 まだ当分は死にたくないが、そう長生きしたくもない。きっと、四十年後、六十五歳になっても同じことを思っている。なけなしの年金をちびちびと切り崩しながら、同じことを思っている。

 そんなことをぼんやりと考えつつ暇を書き潰して、彼女は今宵も英雄の登場を待ちながら眠りに就く。

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