見出し画像

ストーリーを追うか、流れに身を任せるか

 映画の見方に正解は無い。
 人それぞれで良い。
 鑑賞というのはそういうものだ。

 私の場合、ストーリーを追い掛けるというよりも、シーンやストーリーの中に没入して流れに身を任せる。その過程で沸き起こる感情に浸る。そういう見方をするタイプだと思っている。

 言い換えれば、ストーリーの行間から湧き上がってくる何かをそっと掬い上げるようにして集め、それを材料にしてそこでの自分の感情という人形を造る。

 要するに、考えるな、感じろ的に映画を見るということだ。
 
 だから、という事なのか分からないが、映画を見た先からストーリーを忘れてしまう。まるで先週の水曜日の昼食が何だったのか思い出せないように、映画の題名もストーリーも消えていってしまう。

 ところが、うっかりもう一度同じ映画を見ると強烈な既視感に襲われる。当然と言えば当然だ。一度見ているのだから。

 このことは映画に限らない。
 小説でも同じで、読んだ先から忘れてしまう。
 そして、うっかりもう一度読んだ時には、小説の場合でも既視感に襲われる。見たことのある光景が目の前に広がる。

 映画や小説、そして絵画なども含めた芸術作品は、見た人だけが見える映像や感情を記録する媒体だと思う。もっと言えば、表現者が言葉などの他の手段では表せない感情を閉じ込めて人に伝える為の装置だと思う。
 単にプロットを追い掛けるだけでは見えてこない、というか、感じられない何かが作品には込められていて、鑑賞した側もそれを言葉で表すことは出来ない。そういう仕掛けが芸術作品だと思っている。

 そうやって感情に浸ってる私に不意に話しかけて来れないようにするために、映画館は暗くなっているのだと思っている。
 だから自宅で映画を見ていて横から妻が話しかけて来たりすると、私は至極不機嫌になるのだが、そんな私の鑑賞を知ってか知らずか、無頓着に話続けるものだから、妻の話は私の中で映画の中のセリフに融合されてストーリーどころではなくなってしまう。もう嫌になるしかない。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?