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『二人の記憶』第34回 山の上のアパート

 結婚した当初住んだアパートは山の上にあった。

 横浜駅で私鉄に乗り換えて数駅だから地理的には十分に大都会の真ん中なのに、静かな山の上にある畑の端にひっそりと建っていた。
 大家さんが畑の一部を切り売りしながらアパート経営を広げているという感じだが、なにせ道幅も狭小で車の便が悪いので高い値はつかなそうだった。
 実際、昇太郎たちが借りた時も、新築なのにその地域にしては割安だったので、現地を見に行って即決してしまった。不動産屋さんに乗せられて向かった現地は急な坂道を登った末に5ナンバーの車がギリギリ通れるようなくねくね道を行ったところで、途中まではえらいところに連れてこられたなと思った。
 しかし、狭い道を抜けたところに広がる畑とアパートと長閑のどかな風景に魅せられてしまった。
 室内を見学している時に横目でアコを見ると目をキラキラさせていて、ベランダに出た時に奥にある森を見ながら「しょーたろー、ここにしようよ!」というアコに昇太郎も満足気に頷いていた。


 通勤の時は専ら電車だったので、そのアパートへは最寄り駅からしばらくは線路沿いの道を歩いて行って、途中で山道に向かって伸びる脇道に入る。その突き当りに森の中を登る急な階段が続いていた。登りきった後は流石に息が上がるが、広がる畑とアパートが見えると心が和んだ。蒸し暑い夏でも汗だくになりながら畑の中をアパートまでラストスパートの早足で向かうのは案外爽快だった。何より山の上にひっそりと建っていて、外界とは切り離されたゆっくりとした時間が流れているようで心地よかった。


 それでも、都会であることに違いない。
 そのアパートの周囲も少しずつ開発が進み、畑が潰されて家に変わっていった。大家さんだって暮らしがあるのだから、ただの間借り人が畑を残せとも言えない。
 でも気に入って住んでいた広々した自然豊かな土地が壊されて行くようで、スペースの上でも気持ちの上でもだんだん窮屈に感じるようになった。こうして見える空が少しずつ小さくなっていくのだと知った。
 見学に来た時にアコが嬉しそうに外を眺めていたベランダの先には間もなく別のアパートが建った。
 こんな山の中でもあっと言う間に人間に侵食されてしまうのかと、当時は自分達もその一員であることを忘れてアコと二人で残念がった。


 事情があってその後は転居したが、あの場所は今どうなっているのだろうか。二人の生活が始まったあの地は貴重な思い出の場所であり続けることに変わりない。
 今度アコと二人でいってみよう、と昇太郎は思った。
 ただ、あまりの変化に衝撃を受けることも覚悟しておかなければならないだろう。思い出が壊されるような辛さを感じるかもしれない。
 それでもいいから行ってみたいと思った。
 あの時の記憶を辿って歩けばきっと、今の風景に重なってあの時の心象が蘇ってくるはずだから。アコとの新しい生活の日々が心の中に呼び起こされるはずだから。

つづく

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