見出し画像

明日の夕焼けは綺麗だろうか。

 人間社会では、子供は一家の食い扶持を支える労働力として、そして次代の働き手として産み育てられた時代が長く続いた。子が小さいうちは親が子供の面倒を見て、親が年を取れば今度はその面倒を子が見る。そうしたサイクルでかつての家族は成り立っていた。だから子供の数は多い方が良かった。

 その頃の労働の中心は農業で、農作物を売って貨幣を手に入れ、農産物以外の物を手に入れた。食べる物の他に必要な物は殆ど無い時代だったから普通の暮らしに占める貨幣の価値は低かったであろう。現代のような趣味も娯楽も無く、自然と戯れる事が娯楽といえば娯楽だっただろう。自給自足が生活の主流だった。

 工業化によって人一人の見かけの生産性が上がると、手元の労働力としての子供は必要無くなり、子は家の外で働いて貨幣を稼いで来る存在になった。生活に使用するあれこれも自分で作るよりも買ってくる物になった。
 そのうちに、貨幣で何でも買うことが出来るようになると、年に一度の収穫に頼るのではなく、外で働いて貨幣を得るのが生活の主流になった。より多くの貨幣が得られるのは農地の広がる地元ではなく、都会や工場地帯になった。こうして人々は地元から離れていった。

 子が都市で独り暮らしをし、そこで結婚をするようになると、自ずと家族は核家族化した。それまでの大家族や家父長制は古いものとされ、小さな家族が新しいスタンダードというプロパガンダが流布された。
 そして年金という仕組みを通じて子世代が親世代を支える仕組みが構築された。つまり社会制度を通じて2つの世代は切り離された。

 貨幣が中心の生活が普及するに伴って、モノを消費することこそが喜びになった。また、貨幣を使って物以外の何かを受け取る、いわゆるサービス業が次第に増えた。カネさえ払えば何でも手に入り、何でもやってもらえる時代の到来だ。
 その延長線上で老人は老人ホームに集められ社会から切り離された。

 そうなるとカネほど大切なものは無い。そんな価値観が当たり前になる。人々はより多くのカネを手に入れる方法を模索するようになる。多くのカネを儲けた人が羨まれる。
 多くのカネを安定的に手に入れる為の装置として大企業が位置づけられ、そこでのサラリーを目指して子供は学習塾に注ぎ込まれた。そしてお金も注ぎ込まれた。
 そんなカネも当てにならない事があるというのをバブル崩壊によって見せつけられた。
 
 しかしそれによって人々がカネから離れたかというと逆だ。バブルの賑わいが泡となって消えたのは土地の担保価値を過大に評価したツケであって、カネそのものが悪かったわけではないと人々は思ったからだ。悪いのはカネを弄んだ金融業界であって、それ以外の真面目な庶民は被害者だったのだという風に思い込むことで自らを慰めてきた。

 バブル崩壊でもう一つ変わったのは大企業の位置づけだ。大企業が必ずしも安全安心ではないものになるのと同時に、大企業側もより慎重になって経営指標と株価に敏感になった。そして大企業に入れるのはごく僅かの選ばれた人々だけになった。それ以外の人はいつでも切り捨てられる派遣社員のような新しい形態になった。
 従来のような大きな図体の企業は減り、より流動性があって自在な形、つまり持株会社化していった。会社を大きくするのは現業の成長ではなく、買収が主流になった。
 つまり企業においてもより制度化が進んだ。

 今の社会ではあらゆる面でシステム化(制度化)が進み、あらゆるものが分断された状態になった。地域、家族、学校、世代、労働者、企業、持てるものと持たざるもの。
 そして見かけとは裏腹に人一人当たりの生産能力は低下した。スマホやパソコンを取り上げられたら何も出来ない人ばかりだ。高度な社会システムに頼らずに生きて行くことは誰も出来なくなった。
 そしてもう一つ見かけとは逆に男女の分断も進んだ。男女を取り持つ社会的な強制力が無くなって自由意志が尊重される事で繋がりを持ちにくくなったのもそうだが、女性の社会活躍や男性も育児といった様な標語によって男と女の境界を取り除こうとする取り組みが却って男女の社会的な違いを浮き立たせている。

 こうしたことから考えると、社会の進歩は必ずしも人々を幸せにするものでは無いと言える気がしてくる。生活全般はより便利に快適になるが、その反面でカネに頼らざるを得なくなる。カネへの従属は組織や人への従属になる(カネを貰うためなら我慢をしたり、違法なことでもしてしまう)と共に、全ての価値を量る基準としての強い力を持つように(それが幾らで手に入れられるかばかりが気に)なって、私たちの目を見えなくさせる。

 いま私たちは、カネというフィルターの付いた色眼鏡で世界を見ている。それはまるでVRゴーグルの中の世界こそが真の世界と思い込んでいるかのようだ。だから私たちは虫が怖い。ハエやクモやゴキブリを忌み嫌う様になったら、一度色眼鏡を外してみると良い。
 でも、その色眼鏡は外科手術で眼球に埋め込まれていて、もはや取り外すことが出来なくなっていてもおかしくない。
 私たちは、手を伸ばしても決して触れる事の出来ない世界を快適と思って満足している。

 果たして、明日の夕焼けは綺麗だろうか。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?