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「日々死のことを考え続ける人生」に思いを巡らしてみた

「自分は常に死のことを考えているのだけれど、他の人はどうなのだろう」

 これは、あるユーチューバーが動画の中でつぶやいていた言葉だ。
 これを聞いて私はドキッとした。

 このユーチューバーは、定期的に希死念慮に襲われると言い、実際に未遂経験があるらしい。それを告白する動画の中で言っているが、直前に止めてほしくて親に電話したのだという。聞いた親が警察に電話してくれたお陰で未遂に終わったと。

 彼女が別のユーチューバーからインタビューを受けた動画では、こう告白している。
 テストで98点を取ると、取れた点を親に褒められるのではなく取れなかった2点のことを責められた、だから褒められたくて一生懸命勉強した。

 テストは学業の成果を測るためのものであるはず。覚えていないところや理解が足りないところを見つけることが目的だ。
 テストの結果が完璧でなければならないという至上命題を突きつけるのは、勉強に「人間としての完璧さ」を求めることと同じだ。それは押し潰されるような重圧だろう。
 その環境で育つと、『全ての事について』完璧でないと人間として評価されないという観念に行き着くのではないか。

 小中学校では学年トップだったとしても、高校、大学と進学するうちに、そのランキングが落ちていくということは普通にある。優秀な学生はいるもので、どんなに勉強してもこの人たちにはとても追いつけないと観念するときが来る。
 それでもそこで、学業以外で人を測る価値観を持っていれば良いが、親の監視下での血の滲むような努力の末に進学校に進んだような学生にとっては、学業を捨てることは親に認められる術を失うことになる。
 悲しいかなそれは生きている意味を失うことでもある。

 犯行前に止めてほしくてネット上に犯行予告を書き込んだという殺人犯もいる。
 自殺前に止めて欲しくて電話したというユーチューバーと重なって見える。
 自分の中に生死への葛藤がありながらも、自分の意志だけでは止められない。それは冷たい言い方をすれば、自分の意志で物事を決めて実行することをしいたげられてきた結果だろうか。
 自分では望まない敷かれたレールの上を走ることが問題なのではない。存在を親が無条件では受け入れてくれないという不安が、親の出す条件を満たし続けることを生きる動機にまで昇華してしまう。そして、満たし続けることが出来ないことに気付いたときに、生きる動機を失ってしまう。
 問題を難しくするのは、親の側も条件付きでないと受け入れ無いということを意図したわけではない場合があることだ。成り行き上、その場その場で求めることを言っただけで、気付いたら子供を追い詰めていたということが起こりかねない。
 そうなればそれは個人の問題ではなく社会の問題だ。社会を満たす価値判断基準が個人を追い詰める可能性があるとしたら、それを放置することは社会の問題だからだ。

 知らない間に追い詰められて後戻り出来ない状態になってから気付く。
 そうなる前に対処していれば起こらなかった犯罪や自殺は多いのかもしれない。当人にとってはそうせざるを得ない状況に追い詰められた末の不幸が他人に及ぶ時、断罪されなければ社会が成り立たないということは分かる一方で、社会のありかたひとつで救えた命があったとするならば、私たちが生活するこの社会はまだまだ成熟した社会ではないということなのだろう。

おわり

 

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