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興味の角度

 興味というのは人によって角度が違うものだなと思う。

 私は学生時代に、野山を歩きながら野鳥や草花を観察するという一風変わったサークルに入っていた。一年生のときは、山野さんやを歩き回りながら先輩が教えてくれる野鳥や草花の特徴と名前をひたすら覚えた。覚えるのは人より速かった方だった。
 ひたすら覚えるうちに、そんじょそこらの素人以上に詳しくなり、サークル外の友人からは野鳥や草花が好きな人と思われ、野に咲く珍しい花の名前や特徴を解説したりすると、まるで私が専門家であるかのような眼差しを女子から向けられたりして悦に浸っていたものだ。

 今の私が相変わらず野鳥や草花に造詣が深い深いかと言うと、残念ながら全くそんなことはない。生花店の花を見ても妻と同じようには綺麗だね可愛いねとはならない。
 あのときの私は何に興味を持っていたのだろうかと、ふと考えた。

 思えば、あのときの私は別に野鳥や草花に興味があったのではなかった。それらの名前をたくさん覚える事が楽しかったのだ。だから恐らく、覚える対象は他のものでも良くて、サークルが違えば車や電車だった可能性もある。
 しかし同時に、野山を歩き回ることは好きだった。今でも意味なく歩き回る散歩は好きだ。
 そのサークルでは単に野山を歩き回るのではなく、野鳥などの観察がセットになっていたから、たまたま私も覚えることになっただけなのだ。
 そう考えると、私にとって野鳥や草花はそれそのものが興味の対象ではなく、新しいことを覚えることに興味があったに過ぎないことになる。

 人からは野鳥や草花が好きな人と思われていた私の実態はそんなものだったのだ。見せかけだけだったのだ。
 ただ、今でも野山で野鳥などに遭遇したときに、あのとき覚えた鳥の名前が口をついて出てくることがある。不意にラジオから懐かしい曲が流れたときに昔の想い出がフラッシュバックして蘇るような感じに似ている。
 それは哀愁を伴っていて、悪くはない。
 あの時大した興味もなく覚えたあれこれは、間違いなく私の青春の1ページになっていて、今の私を形作る大切な要素になっているのだ。
 興味の角度が違っていても、無意味ということはない。
 そんなところだろうか。

おわり

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