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頑張ることと頑張らせること

 私は頑張るという言葉があまり好きではない。
 それでも、頑張ることが、不要なことだとは思わないし、まして悪いことだとは思わない。

 頑張ることの是非についてはしばしば話題になる。恐らく「頑張る」の定義が人それぞれで少しずつ違っていて、だからこそ話がややこしくなるのだろう。
 ここでは「頑張る」の定義を、英語で言う「I’ll do my best.」的な緩い意味、言い換えれば「私なりに精一杯やります」的な意味とすることにする。

 一般的に見られる頑張るを大雑把に分けると、純粋に自分の意志で頑張る場合と、親の意志で子に頑張らせる場合がある。
 問題があるとすればきっと後者の方だろう。これには、親の意志の影響を受けて頑張ってしまっているにも関わらず自分の意志で頑張っているつもりになっている場合を含む。
 本当に問題があるとすれば、この最後に挙げた、「本人の意志」偽装の場合だと思う。

 「頑張る」ことに親が関わった時点で、「自分なりに精一杯」は「親を満足させるために精一杯」にすり替わる。親という言葉を周囲と言い替えても良い。満足させるために自分を犠牲にするという要素が入り込む。
 だから、必要以上に頑張らせるのは可哀想、となるのだろう。自分なりの頑張りの場合、必要以上になることは有り得ないから、頑張るのが可哀想と思うのだとしたら、「頑張る」のは自分なりにではないという前提で理解していることになる。
 もしかすると、頑張らせるのは可哀想と言っている人こそ、知らないうちに頑張らせてしまっている可能性もあるということか。

 応援で「ガンバレ」と声を掛けることは、頑張ることを期待するのとはまた違う。言ってみればただの掛け声だ。応援で背中を押す気持ちは、言われた側のモチベーションになる。

 話変わって、失敗した子に対して、君ならできると言い聞かせて再チャレンジさせるのは頑張れの無理強いになるのだろうか。
 きっとそれは、その場の状況や空気次第だろう。
 出来る能力を持つ人が応援されて本来の能力を発揮出来るのだとしたら心強い後押しになるし、出来ないにも関わらず頑張らねば許されない空気は重しになる。

 どうせ頑張るなら他人に強要されてではなく心底自分の意志で頑張った方が良いに決まっている。応援する側も無理強いにならないようサポートに徹するならば本人も頑張りがいがあるのではないだろうか。

おわり

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