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どうやって稼ぐかを考える時代は終わる時が来る。

 将来どうやって生きるかと問われた時、どうやって稼ぐかと聞かれたと受け止めるのではないか。
 小中学生の場合、以前ならブロガーになる、今ならyoutuberになるtiktokerになるというのが答えとして挙がってもおかしくない。少し年齢が上がれば、株などのトレードで億り人になることを夢見たりもするだろう。
 どれもお金を手に入れる方法についての話だ。しかも理想とされるのは時間的な効率性が高い方法。より短い時間で労なくして多くのお金を手に入れるのが良いと思われる節がある。
 人生に必要とされるお金をさっさと稼ぎ切って早々にリタイヤすることを目指す人もいる。

 生きることはお金を稼ぐこと、という諺が出来かねないくらい、現代人は身も心もお金に縛られている。
 その一方で、人生の時間の殆どがお金を稼ぐことに費やされることにうんざりし始めている人もいるのではないか。

 お金を稼ぐことを一大目標にしている人も、生きるには最低限のお金が必要だというところから始まったはずだ。それがやがて少しの贅沢になり、その贅沢が普通になるともう少しの贅沢を目指すようになる。そのうちに、少しの贅沢を継続するには貯めておくことの必要性に気付く。貯め始めると今度は、その蓄積量に比例して無くなることの恐怖が募るようになる。
 これはお金の性格だから仕方のないことだ。

 私も含め、働いてお金を得ることに慣れる過ぎると、お金に働かせるとかお金を働かせるという意味が分からなくなる。お金は使うものだと聞いた時に、貯蓄からこぼれ落ちていくキャッシュのことしか思い浮かばなくなる。財布の中から出ていく│札《さつ》のことしかイメージ出来なくなる。つまりお金を道具としてではなく、まるで自分の持ち物、ひいては自分の一部であると感じる様になる。
 これは、お金の捉え方だけではなく、働くことの意味をどう捉えているかに通ずる。

 働くというのは「人のために動くこと」と解説されることがある。自分が動いたことが人のためになった時、そのお礼の気持ちに代わるものとして差し出すのがお金。あなたが動いたことが人の役に立ち、その感謝の証として受け取るものなのだ。皆がそれぞれ、人の役に立つことを為すことで社会が成り立ち、あなたが生きることが出来る。そんな単純な話だ。

 当たり前のことだったはずが、人のために動くことを起点とするのではなく、カネをつかみに行くことを起点にしたために、行動(労働)の目的が人からカネにすり替わってしまった。
 もちろん、社会や経済が複雑になって色々なものが直接見えにくくなったことも、人のために動いているという意識を遠のかせる要因になっているだろう。急速な発展のために、皆がカネを求める様になることを社会が要請した結果とも言えるだろう。
 人々がカネを目当てに動いてくれた方が、国や企業にとっても都合が良い。私たちはまんまとその罠に掛かって檻の中で飼われている奴隷に過ぎない。

 お金があなたが動いたことによる人の感謝の印だとすれば、借金はあなたが将来に向けてどれだけ人のために動くのかを約束するものだ。お金を貸すことで金利収入を得ようという生業が身近すぎて、そうした業者(銀行など)から借り入れるのが借金と思い込んでいる。つまり、借金の意味が低俗化している。
 お金を授ける人がいるのは、あなたの働きに期待してのことだ。それによって社会が豊かになることを。こうしたお金の授け方を投資という。

 お金は、何かを手に入れて所有するために利用する道具であるだけではない。感謝を伝える為の印であり、未来への約束だ。
 お金を働かせることで、社会が豊かになる。
 だから、豊かな社会の定義は多くの物を所有していることではなく、多くの人々が交流し助け合っている状態を指す。

 投資は、それを受けた人が動いて社会が豊かになる様なお金の使い方だ。大きな事には大きなお金が必要で、それによって多くの人に動いてもらう必要がある。だから多くの人の投資を募ることも必要になる。
 その逆に貯蓄は、将来他人に動いてもらうための備えということになるが、皆の貯蓄が膨らんだところでそのお金を受け取って動く人がいなければどうなるだろうか。

 社会やお金の奴隷になってしまっていることに気づき始めている人が多いと感じる。それは意識的にそう思っているというよりも、お金を使ってモノを所有することに何となく嫌悪をおぼえたり、組織の都合を押し付けられることに違和感を抱いたりといった形で進んでいる。
 お金に使われては駄目よ、と言っていた母の言葉がようやく分かりかけてきた。
 人々がお金に使われなくなれば、どうやって稼ぐかを考える時代は終わりに近付くはずだ。

おわり

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