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自然から隔離された隔壁の中で自然を叫ぶ

 人間の文明は自然環境から受ける影響を最小限にする方向に発達してきた。自然を切り離し生活から遠ざける事で自然を人間が利用可能な資源としてとらえ、有効に利用し尽くす事を考えてきた。自然界の自浄作用をも利用することで、人間の出したゴミ捨て場にもしてきた。

 技術は便利な社会を構築するのに活用され、人間の自然利用に拍車を掛けた。どうせ利用するなら利用効率を高めたほうが良いと言う。それは利用する側の立場であって、利用される側からすれば骨の髄まで搾り取られることに相違ない。さらには利用価値のなくなった搾り滓まで押し付けられる。

 自然は加工され続け、生活に身近な世界は人工物で埋め尽くされた。元々あったような自然を見ようと思ったら遥か遠くに出向かなければならない。
 それでも、そんな自然が残されているうちは良かったが、今では人工物を全く目にしない地を見つけることは、少なくともこの日本では難しい。
 残されたのは観賞するための自然であり、感覚的には動物園のそれと大差ない。

 自然を遠ざける事で便利になった私達の生活がしばしば自然の脅威に曝されると、より一層の隔離が企てられる。自然は人間によって制御すべきものという暗黙のルールに疑いの目を向ける人は少ない。何より人命に関わる問題を解決することこそが最優先という道徳的な考えがそれを支持してくれる。たとえそれが近視眼だとしても。
 そして人は近視眼でしか考えられない。

 今更便利な生活を手放すことなんか出来ないと言う。そりゃそうだろう。私達は自然淘汰に抗って囲われた世界を造り、その中でしか生きられなくなってしまった。便利な生活は自然をなるべく見なくて済むように作られたバリヤーで覆われていてこそ守られる。だから、そのバリヤーを破ることは死を意味する。
 私達が自然淘汰で勝ち取った知恵が自らの首を絞める事になる。

 自然を守る、環境を守るといった考えは、人間と自然という二元論の世界で浮かび上がってくる。それはバリヤーの中から見えている壊れ行く何かを惜しむ気持ちや、これからも利用しなければならないものを存続させる必要性から起こるものかも知れない。どちらにせよ、自然と人間は取り戻しようがないほど分け隔てられてしまった。

 今となっては、自然を自然のままで感じることは難しい。それは自然自体が既に変わってしまっているという面と、私達自身が感じられない心身に変わってしまっているという面の両方による。自然の恵みを頭ではなく身体で感じられるような心を持ち合わせた人が、都市生活者の中にどれだけいるだろうか。

 自然を利用し尽くしたとき、それは人類の終わりを意味する。
 ヒトという生き物が完全には終わらないにしても、現在のような文明社会は維持できなくなる。
 私達はいま、間違いなくその道に繋がる場所にいて、迂回路は用意されていない。それが暗黒の道なのかどうかは分からない。どんなに排出量を抑えたところで、地球の自然史は前にしか進まない。
 自然を遠ざけている限りは。

おわり

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