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『君たちはどう生きるか』現象考

 私に続いて劇場に見に行った知人に感想を聞いた。一言、つまらなかったと言った。でも見に行って後悔はしていないという。なぜなら、見てもいないのに批判する訳にはいかないからと。その知人曰く、この映画は誰にもお勧めしないし、もう一度と見たいとは思わないと言った。それが分かっただけでも収穫だと。
 私の抱いた感想と違いすぎて戸惑いを感じた。

 今は、あらすじやストーリーを追えば内容が理解できる映画が好まれる。ストーリーは単純明快で分かり易い方がいい。そう思う人が多い気がする。しかも、予めあらすじくらいは予習しておきたいという人もいる。そういう人から見れば『君たち…』は超絶つまらないだろう。

 一方で、この映画を解読しようとする人々もいる。
 なぜ鳥が多く出てくるのか、石は何を意味するのか、戦争反対の映画なのか。物語を構成するシーンや登場人物などが意味するものを解読することでこの映画を理解しようとする。しかし私に言わせれば、こうしたことは無駄とは言わないまでも、誰にでも興味があることではない。

 つまらないという感想になったり、細かな点を分析したくなるのは、どちらも、映画を頭で理解しようとした時に起きることだ。理屈でとらえようとするから「分からない」のだ。人は良く分からないことに遭遇すると説明を求めたくなるものだ。だから細かな点の意味を探りたくなるのではないか。分からなくても良いと思えるかが分かれ道だ。

 主人公がどうなるのかを追いかけることでストーリーが鮮明になる。悪を倒したり、大切な人と死別したり、あるいは主人公自身が死んでしまったり、そうした軸となる物語を把握することが「映画を見る」行為の主流になっている。これを聞いて、違うのか? と思った人も多いのではないか。
 
 ストーリーは映画の道具の一つに過ぎない。
 俳優がいて、セットがあって、CGがあって特殊効果があって音楽があるように、物語も映画の部品の一部だ。
 映画を作りそれを観る意味のひとつは、暗闇の中で2時間映像作品と向き合うことで、言葉では記述出来ない心の動きを体験することにある。

 ハリウッド映画がエンターテインメントとしての映画を発展させる事が出来たのは、しっかりとしたオチをつけたところにある。ラストカットで物語の終止符を打つ。それによってを観客は安心して席を立てる。明確な結論が示されることで、その映画の答え合わせが出来る。エンドロールが流れる中で染み染みと浸る猶予を与えずに現実に引き戻す。まるで催眠術から目覚めさせるように。

 明確な終止符を打たない事による効果は余韻と呼ばれる。余韻は様々な解釈の余地を残す。つまり正答は人の数だけあることになる。しかし正解が一つではないということは、その作品の評価がバラつくことを意味する。商業的なヒットを狙うなら自ずと正解は一つである方が良い。だからエンタメ作品に余韻は不要だ。

 さて、『君たち…』はどうだろうか。
 
 私には、余韻を愉しむ作品のように思えた。つまり、言葉で説明できるような明確な何かが示されている訳では無い。
 だから、見終わって「あー楽しかった」とはならない。そこで終わるの? と思わされたり、結局何を見せられていたの? となったりする。

 心の中に持っている音叉が共鳴した時に初めて、余韻は大きな残響となって心を震わせる。
 『君たち…』は結果的にそうした効果を期待された作品だったのではないだろうか。
 劇場に心の音叉を持って行った人だけが何かを感じ取ったのかも知れない。

おわり


 

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