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個人情報保護と社会の中の個人

 社会の中の個人か、それとも個人が創る社会か。あなたの感覚はどちらだろうか。

 日本で生まれ育った人は、前者の社会の中の個人という感覚を持つ人が多いのではないだろうか。
 就学時であれば学校の一員、あるいは学生だという意識が強いだろう。働くようになると会社の一員、あるいは社会人という意識。
 これらは何れも、社会の中の個人という考え方を滲ませる。社会というものが最初にあって、その属性の一つとして個人があるという考え方だ。敢えて上下で表すなら、社会が上で個人が下。

 それに対して欧米では、社会以前に確固たる個人があって、社会は個人が創るものという感覚が強い。個人が上で社会が下ということだ。

 ある時からウェブ・ブラウザでページを閲覧しようとするとcookieの扱いについての同意確認が表示されてウザいと思っている人もいるのではないか。cookieの使用時には同意が必要となる、いわゆるクッキー規制が間もなく日本でも始まる。
 しかし日本の場合はヨーロッパに比べると緩やかな規制に留まるようだ。その違いはクッキーによって個人が侵害されていると思う人の割合に左右されるように思える。

 個人情報の扱いについての規制だけでも面倒くさいと思っていたのに、またかと思う人もいるだろう。
 そもそも個人情報の犯罪使用を試みるのは社会の中で極めて少数だ。ましてやクッキーなど盗まれたところでどうだというのか。
 恐らく日本人的な感覚で言えば、個人情報が盗み見られるのは気持ち悪いし、ある程度の規制は仕方がないというところだろう。
 しかしヨーロッパでは、日本人から見れば過剰とも思われるくらいに個人情報規制が厳しい。個人の領域を侵害されることに対する拒絶感がハンパないのだろう。だから個人情報の流出そのものはもとより、情報を含めた個人の扱いに過敏になる。なぜなら個人の損害は社会の損害だからだ。

 日本では、個人の損害はあくまで個人の問題で、そのせいで社会がどうなってしまうという発想はない。むしろ一人くらいでは社会はなんの影響も受けないと思っている。
 人権侵害に対する反応の薄さを見れば分かるだろう。

 例えば髪型について組織がどうこう言うのは人権侵害に当たると聞くと、大抵の日本人は時と場合によると思うのではないか。少なくとも、個性は大事だからねと心の底から思う人は少なさそうだ。制服だって、年齢による定年制だってそうだし、性別に関する様々な議論だって、時流という文脈で語られることはあっても、個性の尊重がとっても大切なことという論調にはならない。

 何が正しいやり方かということではない。
 日本では個人よりも尊重されているものがあって、個人はその一部という考え方が主流になってしまったように思える。きっとそれは昔ながらの日本とはまた違う、戦後に植え付けられたものだと思っている。
 個性だけではなく個人を尊重した先にあるのが過度な個人情報保護だとすれば辟易しないでもないが、個は後回しにという発想も同じように辟易している。

おわり


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