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お互い様の心を思い出したい

 幸い私自身は経験がないが、怪我をして松葉杖を使いながら通勤電車に乗ると結構大変だというのを聞いたことがある。松葉杖という慣れない道具を使いこなす事を言っているのかと思えば、そうではない。それもあるが、気付かされるのは皆が見て見ぬ振りをすることだという。当然ながら電車で優先席を譲られる事を期待してはいけないらしい。日本人がホスピタリティやおもてなしの心を持っているというのはきっと幻想なのだろう。皆自分の権利を行使することに忙しくて他人を助ける心の余裕は無いらしい。

 怪我人ですらこの様子なのだから、身体障害者なら尚更だろうと思う。中でも車椅子はハードルが高そうだ。そのせいか街で車椅子の方を見掛けることは極々稀だ。
 バリアフフリーという言葉を初めて聞いてから長い年月が経っている気がするも、街のバリアフリー化は遅々として進んでいないように見える。車椅子で街中を移動し、電車やバスに乗って健常者と同じ様な気軽さで外出することが理想のゴールだとすれば、その対策はまだスタートしたばかりのような状況だろう。

 先頃、投稿されたあるTik tokが話題になった。
 駅にあるエレベーターに車椅子の障害者が乗ろうとしている際の動画だ。そのエレベーターは健常者でほぼ満員で車椅子が乗るスペースは無い。次を待つしかなく、無情にも扉は閉まる。
 コメント欄では、普通に並べば良いだけじゃないか、車椅子の人が来たら乗っている人が降りなきゃならないの?、エレベーターは障害者専用? といった投稿にいいねが多く付いていた。
 そういったコメント自体もそうだが、それを支持する人の多さに残念な気持ちになった。

 日常的にエレベーターを利用している人にとって、エレベーターは並んで乗るものというのが常識なのは、もちろん分かる。満員だったら次のを待てば良いというのも分かる。しかしそれは健常者同士での話だと思っていた。
 投稿されたコメントではこんな趣旨のもあった。公平平等が大切だから障害者も健常者と同様に並ぶべき。

 駅のバリアフリー化には予算が掛かる。既にある駅を改造する場合は特に掛かる。その費用は乗車運賃や税金で賄われている。つまり、みんなで負担している。ということは乗車券を買った人は皆等しく乗る権利がある。駅は公共施設だ。みんなのものだ。障害者が優先されるいわれはない。そんなふうに聞こえた。

 人類存続を考えてみれば強い遺伝子を残すべきで、その意味で障害者は淘汰されるべき。なのにどうして救う必要があるのか。そう思うのだろうか。マイノリティーは何も障害者だけではない。だから障害者だけに費用を掛けるのはズルい。駅をバリアフリー化する予算があるなら運賃や税金を安くしてくれ。俺に、わたしに恵んでくれ。そうなのだろうか。障害者手帳での割引やNHK受信料免除などズルい。そういうことなのだろうか。

 物事を損か得かだけで考えると見失うことがある。メリデメで考えるのが合理的な解決法であり唯一の判断基準だと教えられて来たのだろうか。
 受験する高校や大学をどこにするか、入社する会社をどこにするか、そして結婚相手をどうやって決めるか。

 損得を享受する主体は常に自分。だから、損得で考える限りそこに他者は入り込めない。思えば、道徳の授業で相手の立場に立って考えましょうなんて教えるようになった時点で、私達は相手のことなんか眼中に無くなっていたのだろう。
 公平平等が大切という主張の裏には、自身の損得が隠れている。公平じゃないと思う自分がそう主張させている。だからきっと、自分が同じ目に遭ったらきっとこう言うのだろう。
 障害者を優先させなきゃ公平じゃない、と。

 社会の公平性は個人の損得とは違うところにある。平等かどうかもそうだ。
 給付金を配るときに収入制限を設けるのが公平平等か、それとも皆に同じ額を支給するのが公平平等か。子供がいる家庭は支出が多いから支給対象にし子供がいない家庭には支給しないのが公平平等か、配偶者や子供の有無に関わらず全ての世帯に支給するのが公平平等か。世帯人数の違いはどう考えるのか。赤ちゃんにも支給するのか、寝たきりの老人にも支給するのか、納税しない人にもか。いや生活保護は大切だ。等々。

 損得も大切だが、広い目で見渡して優しい気持ちでお互いに思いやることができたら生きやすい社会になるはずなのだが。
 もう一度、お互い様の心持ちを思い出したい。

おわり

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