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恋愛の愛はエゴであり衝動 

 結婚はもともと、社会において子供を育てるための制度の一つとして生み出され、それを成り立たせるために、愛という概念が必要だった。そういうことだろうか。

 恋愛は、生物としての衝動を言語化したものだろう。恋愛とは別にスキンシップやセックスが気持ちいいのは、即物的に言えば遺伝子を受け継ぐためだ。世代を越えて生き延びる為で、実際には、それこそが生命の本質であり営みそのものだろう。
 しかし人間を含めた生物は、自らの遺伝子を存続させるために交配をして子孫を残しているのではない。遺伝子を持ち出すのは、一つの説明原理、つまりそう説明されると分かった気になるということだ。
 自らの遺伝子を残すことが生命の目的なのだとすれば、交配によって相手の遺伝子を受け容れている時点で敗北している。遺伝子を受け継ぐことは目的ではなくて結果に過ぎず、遺伝子の交配によって多様さと変化を生み出すことが自然環境の変化に適合しやすい仕組みだったということだ。
 交配のための仕組みは生物によって異なり、人の場合は人を好きになって恋愛をすることで、自分の遺伝子のペアとなる存在を見つけることが定着してきた。

 ここに来て恋愛をしない人が増えたのも、男女というペアに限らず生物学的に子孫を残すことが出来ない恋愛関係が増えたのも、それは社会の中の多様性、つまり社会という籠に入る資格があるとされる暗黙の基準を広げようとした結果だ。社会が多様性を求めるのは生物としての衝動ではなく頭が考えたことで、遺伝子の多様性とは全く別物だ。
 
 ここで恋愛や結婚の是非を問うつもりはない。しかし子孫をつくらないケースが増えるとなれば人口減少は免れない。社会の多様性が進むことで生物としての遺伝子の多様性が減少になるとすれば皮肉だ。

 恋愛の行き着く先に遺伝子の存続があるのだとすれば、恋愛の愛は究極のエゴであり、単純化して言えば生物としての衝動でしかない。その意味で現代の多様化した恋愛はエゴよりも友愛で利他的なのかも知れない。それがきっと将来的な人類の遺伝子プールに良い影響を与えて行くのだろう。
 なぜなら、もし将来も人類が生き延びていたとするなら、今のこの時代に起きていることは少なくとも遺伝子的な観点からは正当化される適者になるだろうからだ。

おわり

 


 
 

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