映画『ミッシング』
公園で遊んだ帰りに突然死失踪した六歳の娘。警察は捜査を進めていると言うが手掛かりは無いまま月日だけが過ぎていく。次第に周囲の人々の関心は薄れ、捜索に協力してくれるボランティアや駅前で配るビラを手に取ってくれる人は減っていく。他の新しいニュースに埋もれ、事件は無かったことになりつつあるばかりか、ネットには娘の親や家族をバッシングする書き込みで埋められていく。
この映画は、失踪した娘を追い続ける夫婦の話だ。
帰ってくるはずの家族が帰って来ない。その哀しみは当事者でないと分からない。つい、お気持ちは分かりますと言いそうになるが、そんな気持ちは分かるはずもない。何年も探し続ける毎日が日常になる時の心理状態は、想像の域を超えているからだ。
失踪したのが年端もいかない子供なら、何かの事故や事件に巻き込まれたとしか考えられない。このことは人への疑念を生むのだ。その疑念はいつしか不信に変わり被害者家族の心に沈着する。何をしても、いつになっても救われることの無い拷問の様な時間を生きるとは、そういうことなのだ。
実際にあった事件に、似たような話があったかも知れないが、この映画はあくまでもフィクションだ。
いなくなった娘が見つかるのかどうかがテーマではない。娘が失踪するという舞台設定の上で、様々な立場で揺らぎ移ろう人の気持ちを描いた作品だ。派手さも明快さも無く、まして楽しめる映画ではない。地味な話が大きな進展も無く淡々と続くのは、題材にしている様な事件で起こる現実とシンクロしている。
そして、単調な物語だからこそ、役者たちの演技力に改めて感銘を受ける作品だった。
出したくても出せない感情は人を寡黙にさせ、誤解の種になる。かと言って感情に身を任せれば人ではいられなくなる。その様なアンバランスの中で懸命にバランスを取ろうとしている人々の姿は、娘を持たない人にとっても感じられる機微がある。静かな感動に繋がる。
おわり