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合理性には様々ある

 何のためにそれをするのか。それにはどんな意味があるのか。そんな問を発する人が多くなったと感じる。一部ではそれが恋愛の様な事にまで広がっている。人を好きになるのにも結婚するのにも、それ相応の理由と根拠が必要で、何かをする時は全てメリデメで考える。友達も仕事も、趣味も旅行も。SNSで繋がった友達が多くて社交的に見えても思考は内向きだ。自分にとってどうかで考える。それはつまり、判断基準の多くを経済的合理性に頼っているということでもある。
 意味を問うこと自体が問題なのではない。その背景にある価値基準が問題なのだ。

 営利企業での仕事では経済的合理性を追求するのが資本主義として当たり前なのだが、そうした価値観が生活にまで及んでいる事になる。しかも人の生き方の指針にすらなっている。
 経済的合理性の世界では全てかねに置き換えて計られる。美術も芸術も、個人の時間も金で計られる。
 金が指し示すものは市場価値と呼ばれている。市場価値とは、すなわち人気度だ。だから登録者数やイイネの数は重要だし、かつ、金になる。
 商品が金になるためにはとにかく知名度が重要だ。知られて無ければどんなに良いものも売れない。知名度の先に人気度、つまり高評価がある。だからこそ広告業が成り立つ。

 今は人を含めたあらゆるものが商品にされている。マッチングアプリに登録したあなたも、そのアプリ内ではAmazonのサイトにある商品と同列の扱いだ。マッチングは株価が決まる理屈と同じとも言える。要するに需要と供給で決まるということだが、人気者とそれに群がる人の数は常にアンバランスだから、美味しい果実を手に入れられる人は限られている。もちろん、そこでの美味しさの基準は経済的合理性、つまり損得勘定だ。

 昨今、個人情報の取り扱いが煩く言われる。それは日本よりもヨーロッパで顕著だ。ヨーロッパでは個人情報そのものに価値があるからということではなく、個人情報が価値化され商品化されることへの嫌悪が強いからだ。企業が自在に個人情報を扱うなどといったことは、人権の冒瀆以外の何ものでもなく許せないのだろう。
 経済的合理性のゆくはてに人権侵害があってはならない、人権こそが大切という社会的合理性がその根幹にある。

 何が正しいだの正しくないだのと言い出せば、様々な価値観の衝突しか生まない。価値観には時代性があるし地域性もある。
 しかしこれだけは言えるのではないか。ひとつの価値観に縛られて思考停止になったりしないように、この世には実は様々な合理性があるのだという事を受け入れるのが大切だと。

おわり

 

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