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残響と余韻

 最初の出会いは一枚のパンフレットだった。
 それはYAMAHAのサラウンドプロセッサーに関するものだった。DSP(Digital Surround Processer)と呼ばれるそれは、実際の劇場で測定したデータを元にして信号処理を加えて家庭でも臨場感のあるサラウンドを実現出来るというものだった。
 当時まだ高校生だった自分にはとても手が届かない製品だったが、強い印象とともに憧れを抱いたものだ。
 家で映画館のような音で映画が見られたらどんなに素晴らしいことか。パンフレットを見ながらそんなことをうっとりと夢想していた。

 映画には様々な要素があるが、私にとって映画館のあの音は、映画とは切っても切れないものだった。
 そう、スクリーンから出る音は現実世界とはまた別の、明らかに誇張された音だった。そして当時の音圧は今よりも格段に大きかった印象だ。
 現在のように、スクリーン以外のあちこちから様々な音が出る様な技術が導入される前のあの当時、映画という異世界を作り出すには音の技工よりもデフォルメに振るしかなかったのかも知れない。

 フィルムが使われていた頃は、音と違って画像の解像度や表現力は下手なデジタルよりもずっと上だったから、音のリアルさを追求するようになったことは当然の成り行きだったのだろう。音質、音量だけではなく、画面以外の方向にあるはずの音を館内に再現する技術。それがサラウンドだった。

 最初は何となく後ろからも前と違う音がしている程度だったものが、音声処理のデジタル化と共に格段に進歩していった。前と後ろという大雑把なものではなく、360度一つ一つの方向に別の音を割り当てることが可能になった。そして今では天井にまでスピーカーが埋め込まれて音が降ってくるようになっている。
 そうして作られる音場は製作者の意図する世界観を再現するのに役立っている事だろう。

 その反面で、失われていっているのが余白だ。行間と言っても良い。
 かつて映画は配給されたフィルムに完成した作品が収められているのではなく、それが上映される時、作る側のクリエイティビティと見る側のイマジネーションがスクリーン上で出会うものだった。映画は上映の瞬間にその場で完成品になる。観客も参加して作り上げる芸術の一形態だ。
 他の芸術がそうであるように、ただ客観的に完成品としてそこにあるのではなく、媒体として存在するものだった。

 シナリオから映像、そして音響までも、全てが説明的にお膳立てされていて、見れば明明白白に《分かる》ような映画でないと今の時代は受けないというのも分からなくはない。
 いまや映画はエンターテイメント、つまり消費対象であって芸術ではないからか。
 消費というのは、その場の瞬発性が大事だから、行間を読まなきゃならないような分かりにくいものとは相性が悪い。その一瞬が楽しくなければならないという宿命を負ったエンタメは、使われたそばから次々と捨てられる。そこに余韻など求められるはずもない。

 いや、今でも現場の人たちは頑張っている。
 エンタメ要素も入れながら、それと同時に含みを残すような二重三重構造にして踏ん張っている。幕の内弁当のようだと言われるかも知れないが、それでも分かりさ一辺倒以外の要素を残そうと取り組んでいる。
 だからむしろ問題は私たち見る側の方にあるのかも知れない。

 お笑いでも、消費であれば最後のオチでスカッと終わるネタも良いが、芸術となれば含みが必要だと思うのは私だけだろうか。
 そう言えば、残像とともにこちらの心の中に余韻が残る様な落語をしばらく見てない。

おわり


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