原作者亡き「国民的作品」をいかに継承するか -映画ドラえもん『のび太の地球交響楽』
映画ドラえもん『のび太の地球交響楽』について考えている。
この記事に書いた通り、私はこの作品を高く評価している。冒険の舞台を具体的な場所(海底や秘境など、何らかの異世界)ではなく抽象概念(音楽)に設定したこと、そのうえで原作のいくつかの短編をオリジナルの長編映画に再構成したこと。この2点を達成しただけでも、『藤子・F・不二雄生誕90周年記念作品』に値する良作である。
だが同時に、「よくできている」作品ではあるがこれ以上に突き抜けることは望めなさそうだ、とも感じた。1年前の記事で取り上げた『のび太と空の理想郷』もそうだった。ドラえもんの長編映画は、何らかの壁に直面している。
結論から言おう。近年の映画ドラえもんにおいて、冒険は「事故的に出会い、外部から自分を変えるもの」から「自分の内面の問題を解決するために用いるもの」へと変わった。その結果、共感を集める物語にはなるものの、日常の外に出る想像力をもつことができなくなっている。
原作者亡き国民的作品をいかに継承するか。『のび太の地球交響楽』は、その問いを浮き彫りにした。
なぜあの頃、大長編ののび太は格好良かったのか
原作の大長編漫画をベースとした映画ドラえもんにおいては、外から事故的にもたらされる冒険が結果として自分を変える、という構造がとられていた。
当時の大長編においては「お約束」とも言える展開があった。例えば、「のび太がリーダーシップを発揮する」「ジャイアンが仲間思いの良い人になる」「スネ夫が弱虫になる」である。それは、大長編において、のび太たちと冒険は事故的に出会い、冒険が彼らを日常の外へ連れ出していたからだ。
日常とはかけ離れた世界に事故的に出会ってしまう。そこには新しいものに出会った興奮と、未知のものに立ち向かわなければならない恐怖が混在している。そして、異世界には必ずと言っていいほど強敵がいる。生身の人間には手に負えないものに立ち向かう。そのために、ひみつ道具を使う。しかし肝心のドラえもんは混乱したり、故障したりする。
かつての大長編においては、事故的に出会った冒険に立ち向かう中で、人の想像をはるかに上回る自然の力、それを少しでも解き明かし手なずけようとする文明の利器、そうした道具を用いる人間の人格、といった複数の事柄が試される、という物語になっていた。
だからこそ、いつもの町での平和な日常と、異世界で繰り広げる冒険とでは、彼らの人格は異なっていたのだ。事故的に出会ってしまった冒険、うっかり出かけてしまった異世界に人格を試されたからこそ、それに立ち向かうために、のび太は頼もしいことを言い、ジャイアンはそんなのび太に協力していた。のび太・ドラえもん以外のキャラクターの個性が物語の鍵となる場面もあった。ひみつ道具が思いがけず物語を左右する場面もあった。
「のび太のコンプレックス」を起点とする物語へ
しかし『のび太の地球交響楽』においては、「のび太のコンプレックス」が物語の起点となり、彼の内面の問題に即したテーマの冒険が現れる、という構造になっている。この点は、前作『のび太と空の理想郷』においても同じである。
『のび太の地球交響楽』における物語の起点は、「リコーダーを上手く吹けず、クラスメートに笑われる」というのび太のコンプレックスである。そして、音楽の授業に嫌気がさしたのび太は、ひみつ道具の力で地球から数時間音楽を消してしまう。この行為が地球に「不気味な生命体」を招いた、というプロットになっている。
つまり『のび太の地球交響楽』は、のび太が地球に招き寄せた災厄を、のび太と仲間たちが追い払う物語である。
のび太のコンプレックスを物語の起点にすると、彼のコンプレックスが何らかの方法により解消されることが物語のゴール、冒険の目的になる。のび太のコンプレックスにより招かれた災厄が、のび太の行動と欲求の充足により解決する。
物語はのび太を中心に回る。そうなると、冒険の舞台である異世界も、いつもの仲間たち(しずか・ジャイアン・スネ夫)も、ドラえもんとひみつ道具も、その存在感を薄めざるを得ない。なぜならこの物語は、のび太の不満に始まり、のび太の満足に終わる物語だからだ。
仲間たちの存在感は薄い。彼らの言動やふるまいはきわめていつも通りである。まるでモブキャラのように。
そしてドラえもんも、まるでスマホのようだ。ドラえもんは、物語の展開に沿って、その場面をアシストするようなひみつ道具を出すだけである。のび太の人生を矯正するために「未来の国からはるばると」訪れ、時に厳しく彼を諌める「子守り用ロボット」の姿は、そこにはない。ユーザーの気分とその場の空気を読んで、その場その場に最適なアプリを立ち上げてくれる、AlexaやSiriのような存在だ。
「事故的に出会い、結果として自分を変えるもの」としての冒険から、「自分の内面の問題を解決するために用いるもの」としての冒険へ。のび太とドラえもんたちの出かける冒険は、SF(少し・不思議な)世界へと連れて行ってくれる物語から、悩める私たちに小さな承認を与えてくれる物語になった。
「ここではない、どこか」への想像力から、「今、ここ」を充足させるためのヒーリングへ。『ドラえもん』という「国民的作品」の変質は、人々が物語に求めるものの変容を映し出しているのかもしれない。
「国民的作品」をいかに継承するか
「のび太のコンプレックス」を物語の起点にすると、多くの人々がもつ悩みへの共感を集める物語となるかわりに、日常生活の外に突き抜ける想像力は失われる。『ドラえもん』の長編映画に起きているこのような変化を見るにつけ、原作者亡き作品を継承することの難しさを感じる。
もちろん、このような変化を取り上げ「原作の世界観が保たれていない」と論難することは簡単である。しかし、ある作品を原作者亡き後も継承することとは、原作の世界観、表現の背景にある原作者の価値観などを盲目的に引き写し続けることだけではないだろう。
原作者もまた、特定の時代や環境に規定された一人の人間である。時代の移ろいや社会の変化に合わせ、改めるべきことはある。『ドラえもん』において、のび太が学校で廊下に立たされなくなったことはその一例だろう。
「国民的作品」となった『ドラえもん』は、ひとつの子ども向け漫画としての域を超え、もはや一大ビジネスと化している。今も多くの子どもたちが日々短編にふれ、毎年春には大人も含め多くの人たちが新作映画を楽しみにしている。キャラクターグッズなど、関連産業で生計を立てている人も多くいる。
続けるためには、売れなければならない。売れるためには、みんなが欲しいものをつくる必要がある。たとえそれが、作品を変容させることになったとしても。
一方で、原作者の名前を冠する以上、「時代に合わせた」作品の変容はどこまで許容されるのだろうか、という疑問も浮かぶ。当然、メディアミックスに対する考え方は作者により異なる。だが、タイムマシンをもたない私たちに、原作者へ問いかける術はない。作品を継承する創り手たちと、それらを鑑賞する受け手たちの相互作用が試されている。
原作者亡き国民的作品をいかに継承するか。『のび太の地球交響楽』における映画ドラえもんの達成と限界は、その問いを私たちに突きつけている。
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