義務教育としての英語

単語帳の表紙にある「2500」は何の数字だと思いますか? 
みなさんが中学校を卒業するまでに覚える英単語の数です。

 塾の教室でこう伝えると、多くの生徒は遠い目をする。当然の反応だろう。この語数は、30〜40語程度を範囲とする単語テストを中1の春から毎週続けたとして、中3の夏にようやく「2500」にたどり着くペースである。
 英語教育熱に浮かれた架空の国の話、ではない。とある塾の教室から見た、日本の英語教育の風景である。

 現行の学習指導要領において、外国語教育の目標は「関心のある事柄から日常的な話題や社会的な話題まで取り上げ、そういった事柄や話題について、一層幅広いコミュニケーションを図ることができるようにする」(注1)とされている。この目標を以下では仮に〈「グローバル人材」の英語力〉と呼ぶ。

 〈「グローバル人材」の英語力〉を育成するべく、様々な「改革」が進んでいる。例えば、小学校英語の導入と早期化、「英語の授業は英語で行う」方針、入試におけるスピーキングテストの導入などがそうだ。先に挙げた「中学校卒業時までに2400語習得」も「改革」の一端である。

 しかし、塾講師として小中学生の英語学習に携わる現場の実感からすると、〈「グローバル人材」の英語力〉は学校の教育目標として妥当なものとは思えない。

 一部の人にだけ当てはまる崇高な理念ではなく、「義務」教育の課程で学んだ内容が未来への種まきになるような、地に足のついた英語教育の目的論が必要ではないか。この目的論を以下では〈義務教育としての英語〉と呼ぶ。


義務と選択の峻別

 では〈義務教育としての英語〉は何を目指すのか。「義務と選択の峻別」「共有基底言語能力の向上」の2つである。

 まず「義務と選択の峻別」について。〈「グローバル人材」の英語力〉の育成を学校における英語教育の目標とすることには、2つの側面から無理がある。

 第1に、学校の1教科程度の学習時間と負荷「だけ」で〈「グローバル人材」の英語力〉を習得することは困難である。
 日本に生まれ育つ人が英語を習得しようとするならば、EFL(English as a Foreign Language)環境の中で学ぶ必要がある。日々の暮らしや学業・仕事はほぼ日本語で事足り、日常生活の中で英語を「使わなければならない」場面はほぼない。この環境で母語でも公用語でもない外国語を習得するには、相当な向学心と根気強さが必要である。
 さらに、日本語と英語は互いに「外国語」としての相性が悪い。アメリカ国務省の分類によれば、英語母語話者にとって日本語は、極めて習得が難しい言語とされている。ということは、その逆も然りだ。日本語を母語とする人にとって、英語は相当な苦労を経ないと身につかない言語である(注2)。

 第2に、〈「グローバル人材」の英語力〉をすべての児童生徒に求めるという目標は妥当ではない。業務などで日常的に英語を使い〈「グローバル人材」の英語力〉を実践している人は、国内の就業者の数%である(注3)。多くの人にとって英語は、例えば中点連結定理や禁中並公家諸法度のように、あの頃学校で習った「懐かしい」ものごとにすぎない。
 学校教育における英語学習の目標を〈「グローバル人材」の英語力〉とすることは適切ではない。誰もが英語を言語教育として学ぶべき「義務」の段階と、「グローバル人材」のルートを志す人のみがより高度な内容を学ぶ「選択」の段階を分けるべきである。

共有基底言語能力の向上

 では「義務」の段階における、言語教育としての意義は何か。それが「共有基底言語能力の向上」である。

 「共有基底言語能力(Common Underlying Proficiency)」とは、教育学者ジム・カミンズが「相互依存仮説(Interdependence Hypothesis)」において提唱した概念である。
 相互依存仮説は通称「二山氷山理論(Dual Iceberg Theory)」とも呼ばれる。カミンズによれば、水面の上では別々に見える二山の氷山が実は水面下でつながっているように、母語と第二言語(母語の次に習得した言語)も実はつながっている。この「つながっている部分」が、ことばの読み書きに深く関わる「共有基底言語能力」である。
 そして母語と第二言語がそれぞれ影響を与え合うことにより、共有基底言語能力は伸びるのだという。母語で身につけた言語能力が第二言語習得に活きる。そして、第二言語を身につけることにより、母語にも通じる言語能力を培うことができる(注4)。
 小学校英語への反対論として、「英語に国語の学習時間が奪われたから、児童生徒の国語力が低下した。英語を学ぶ前にまず日本語を身につけるべきだ」というものがある。この意見は、母語の能力と第二言語の能力がトレードオフなものであるという認識に立っている。
 しかし「共有基底言語能力」の概念を踏まえれば、母語の能力と第二言語の能力は対立するものではなく、むしろ互いに影響を与え合うものである。第二言語を習得するからこそ、言語の枠を超えた読み書きの能力が高まる。

〈義務教育としての英語〉試案

 〈義務教育としての英語〉を導入した教育課程としては、次のような内容が考えられる。

①小学校における外国語学習の開始学年は5年生とする。
②小学校における外国語学習は「教科」とはせず、成績の評価は行わない。単語や文法事項の習得目標は設けず、英語をはじめとする世界の多様な言語・文化について理解を深めることを主な内容とする。
③中学校における習得単語数は、使用頻度の高い1,200語とする。文法事項については、書き言葉・話し言葉の両方において使用頻度の高い項目を中学校で習得し、より高度な項目を高校で扱う。
④高校の教育課程においては、英語は1年次のみ必修教科とし、2・3年次においては各生徒の進路希望等に合わせた選択教科とする。
⑤高校の英語(選択教科)においては、「職業英語」「学術英語」の2科目を設置し、企業実務や学術研究の基礎となる英語の4技能(読む・聞く・書く・話す)を養う。

 上記の教育課程はあくまで試案である。重要なのは、「共有基底言語能力の向上」「義務と選択の峻別」を軸とすることにより、英語教育があらゆる児童生徒にとって「未来への種まき」となることである。将来英語を使うルートに進む人には、その基礎となる知識や技能を養う。英語を使わないルートに進む人には、日本語だけの生活にも役立つ言語能力を培う。
 「義務」教育の枠組みで学習したことが、直接的であれ間接的であれ、何かしらの形でその後の人生につながるような内容を組む。これが〈義務教育としての英語〉という提案である。


(注1)文部科学省『中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 外国語編』(開隆堂出版、2018年)p.7。
(注2)江利川春雄『英語教育論争史』(講談社、2022年)p.259-260。
(注3)寺沢拓敬『「日本人と英語」の社会学 -なぜ英語教育論は誤解だらけなのか』(硏究社、2015年)p.175。
(注4)相互依存仮説および共有基底言語能力の説明については、馬場今日子・新多了『はじめての第二言語習得論講義 -英語学習への複眼的アプローチ』(大修館書店、2016年)p.49の記述を参照した。

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