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わしら一人の武功で三カ国をとり治めたわけではない。みな、諸侍の働きによるものである

戦国大名 島津義弘

●文禄・慶長の役で朝鮮に出兵し、勇猛果敢な戦いぶりを見せ、戦功を立てた島津義弘であったが、関ヶ原の戦いで西軍に加わって敗れた後は、隠居した。

●義弘は、その勇猛ぶりとともに、部下管理に細やかな気配りを示したことで知られている。義弘は日ごろから「みな、諸侍の働きによるものである」と、部下の功をたたえていた。

●江戸中期の儒者、荻生徂徠は、『将たるの道十ヵ条』のなかで、
「功を他に帰せ、罪は我に帰せ」といっているが、島津義弘は功を他に帰す武将であった。

●そればかりではない。家臣の子供たちには、父親のことをそれぞれに評価して語り、父親に負けぬよう励ましている。その気配りの細やかさは、取り立てて功名がなく、出世できなかった家臣の息子にかけた言葉にうかがえる。

●「そちの父はなかなかの侍だが、運悪く、思うような功名がなかった。さぞかしつらかろう。そちは父にまさる侍になりそうだ。これからは大いに功名をあげ、父の分までがんばれ」

●出世した父を持つ子には、父の名を汚さないよう励めと気持ちを引き締めさせ、窓際族の父を持つ子には、父を認め、評価してやって奮起させ、父に代わって家名を上げるよう期待している。

●こうして、親子ともども面目をほどこし、かつ心を揺り動かされて、一家のために、また島津藩のために、大いに奮い立ったのである。なお、引用の言葉にある三ヵ国とは薩摩、大隈、日向のことである。

●ビジネスという戦場において「功を我に帰せ、罪は他に帰せ」という、将たる道に反する上司が少なくない。「一将功成りて万骨枯る」というのでは、部下はたまったものではない。それどころか、部下の功を奪う上司さえいる。

●部下は、自分の能力や努力を正当に評価してくれる上司のもとでは、骨身を惜しまず、力の限りつくして働き、さらに上のステップへと能力を高めていくものである。

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