見出し画像

小学4年生の男の子が1年掛けて考えた「宗教のつくり方」に、「ゴルスタ炎上」に似た狂気と異様さを感じる『よいこの黙示録』

※本記事は、「マンガ新聞」にて過去に掲載されたレビューを転載したものです。(編集部)

【レビュアー/小禄卓也

中高生限定SNS「ゴルスタ」が炎上し、程なくして運営会社よりサービス停止の発表がなされた。



「SNSでちょっとでもゴルスタの悪口を書こうもんならアカウント凍結」「反省文を書いて提出すれば復活も可能」「悪質なユーザーには運営公式ツイッターが名指しで注意(dis)」など……。大人を完全に閉め出したサービスの運営方針は、大人たちから見ると完全にアウトじゃないかと思わされるような異様な雰囲気に包まれていた。

しかしながら、当の中高生たちにとっては「それくらいがちょうどいい」制度だったという声も聞こえてくる。

あまり外の世界を知らない中高生だからこそ、大人たちが作り上げた「社会の普通のルール」なんて知らないし、子どものころの思い出と言えば「5時までに帰りなさい」といった、ある種理不尽な親のルールに従って生きざるを得ない世界にいるような人種であるため、理不尽さも分からずスッとルールを受け入れたのかもしれない。

このニュースでなぜか思い出したのが、故・青山景さんの遺作にして問題作にして傑作の『よいこの黙示録』だ。

この作品は、小学4年生の少年・伊勢崎大介が構想1年、同じクラスの女の子・森ユリカを教祖にまつりあげてクラスの中で宗教を作り上げる、という物語である。

ここで登場するのは小学生が中心だが、「ごく閉ざされた、社会をまだ知らない子どもたちに新しい価値観を植え付け、それに盲信させる」という観点で見ると、ゴルスタ問題の本質的な問題も少し透けて見えてくるかもしれない。

そして、今回紹介したいのは、この小学生・伊勢崎が考えた「宗教のつくり方」の緻密な戦略である。小学4年生とは思えない論理的思考力と計算力、実行力には驚かされる。社会人でもこんなことできるやつはなかなかいない。今回は、彼が考えている宗教の布教プロセス(彼はこれを「カリキュラム」と呼ぶ)について紐解いてみよう。

小学生の伊勢崎くんが考えた新興宗教立ち上げの5ステップ

まず1つ目のステップは、「選別」である。教祖になる森ユリカが起こす「奇蹟」に「現場に居あわせた人間」と「出遅れた人間」との間に水位差をつくるというのが彼の狙いだ。

前者が喜々として体験を流布してまわれば、後者は流行に遅れまいとして必死に食らいつく。発生した水位差を埋めようとする「出遅れた人間」の心理をついた作戦は、自然な流れで2つ目のステップ「口コミ」へとつながっていく。

しかし、口コミで広まったはいいものの、浸透しただけで定着はしていない。「教祖・森ユリカ」を定着させるための3つ目のステップが、タブー化だ。

「異能の者」に宿命的に刻まれるスティグマ、つまり負の烙印を押されることにより、のちの神聖化へとつながると見込んでいる。森ユリカに対する畏怖の念を植え付ける具体的な内容が「不幸の手紙を回す」というあたりは小学4年生っぽい発想で可愛げがあるが、この作戦は効力を遺憾なく発揮し次のステップへと移っていく。

4つ目のステップが、懲罰。タブー化、スティグマ化することで教祖に対する畏れや、恐れから来る暴力をふせぐこと、そして、その後の神格化をはっきりさせるために必要なステップである。ここでは、伊勢崎自身が森ユリカをかばうかたちでケガをし血を流す(実際は血のりだが)ことで負の連鎖を止め、公の場で「森ユリカ=教祖」であることを宣言することに成功した。


そして最後が布教活動である。最初こそ興味のある者は少ないが、このフェーズで自発的に伊勢崎と森ユリカのもとに訪ねてくる者は非常に強い信仰心と拡散力を兼ね備えるため、今後の布教活動を行う上で最も重要な存在になると言えよう。まるでスタートアップの一桁メンバーのような存在である。

ここまで、とても順調にコトは進む。が、残念ながらこの先の展開についてははっきりとした輪郭がつかめないままこの物語は終焉を迎える。それも、よりによって「俺達『うんこちんこーず』は解散だ…」という言葉が最後となって……。

宗教がタブー視される日本人の心理をついた「王道作品」

このストーリーを改めて読んでみて、ふと思ったことがある。これ、テーマが「宗教」でなく「スポーツ」や「ヤンキー」でも十分当てはまる設定だ。1人の熱血漢が少しずつ周りを巻き込んでチームを作って全国大会優勝へと導いたり、田舎から出てきた1人のバカが喧嘩最凶のヤンキー高校をはじめてまとめ上げたりする物語と、本質的には変わらない。周りが救われたのが「スポーツに」なのか、「仲間に」なのか、「宗教に」なのか、その違いでしかない。

『よいこの黙示録』は、この王道なストーリーに「宗教」という日本人にとってある種スパイシーな設定をすることで異様さを際立たせているのだと感じた。印象的なのが、五十嵐という正義感の強い男の子が友だちに対して「俺はシューキョーで変わったんだ」という一コマがある。

おそらく青山さんも意図的にしていると思うが、小学4年生がシューキョーで変わったということの違和感がそこに映し出されている。

そして、そのように見てしまっている僕自身が「宗教」というものに対するある種の偏見を持っているのかもしれない。念のため伝えておくと、僕はその人が本当に救われたと心から思えるのであれば、宗教であろうがスポーツであろうがなんでもいいと思っている。

最後に、漫画を愛する人ならご存じの方も多いだろうが、青山景先生は本作『よいこの黙示録』を連載中の2011年10月ごろに自ら命を絶った。正直、続きが読めなくなったこの漫画をすすめていいものだろうかずっと迷っていた。

しかし、今でも読み返せば続きが気になり、2巻の終わりに書かれている人物設定とプロットを読むとワクワクが止まらなくなる。青山先生、この後描かれるであろう『よいこの黙示録』は間違いなくおもしろくなりますね。

青山さんが亡くなって5年が経とうとしている今、僕自身ももうじき青山さんが亡くなった32歳という年齢に差し掛かろうとしている。死してなお読者を期待させ、誰かに惜しまれるような作品を、人生を僕は残せているだろうか。そんなことを、断裂した左膝前十字靭帯の手術を終えた病床で考えている。