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人付き合いにも、自分と向き合うことにも疲れた…。そんなあなたに贈る処方箋『娘の家出』

「思春期」という言葉を聞いた時、みなさんは何を思い浮かべますか?辞書によると……、

思春期……児童期から青年期への移行期。もしくは青年期の前半。第二次性徴が現れ、異性への関心が高まる年頃。一一、二歳から一六、七歳頃をいう。春機発動期。青春期。(三省堂 大辞林 第三版)

だそうです。

児童期と青年期の間にだけ現れる、「春を思う期間」。突然のなんだかポエムな単語。昔から、思春期は特別な期間であると認識されているということなのでしょう。

今回ご紹介したいのは、そんな思春期特有の「特別な時間を生きる人間」を描かせたら右に出るものはいない、志村貴子先生の『娘の家出』です。

「パパをうばってごめんなさい」

志村貴子先生の作品には多くの思春期の少年少女が登場します。本作でも、衝動的で不安定で傷つきやすい、だけど本当は大人が思うより大人で、大人が思うより色んなことが見えている少女(と、少年と、元少女)たちがたくさん登場します。

『娘の家出』は思春期の強かさがたまらなく愛しくて、読後感も爽快な作品です。たとえ、主人公の父親の不倫が原因で両親が離婚していても。たとえ、その不倫相手が男性だったとしても。そして、その人が主人公の初恋の人だったとしても……。それすら爽やかに軽やかに描いてしまう志村貴子先生は天才だと思います。

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 『娘の家出』(志村貴子/集英社)1巻より引用

当たり前に、自分で自分の人生に向き合う。登場人物たちの生き様の心地よさ

この作品、一応主人公は存在するものの、オムニバス形式で物語が展開していくため、一話ごとに様々な登場人物の視点に切り替わっていきます。話自体は一話完結なので、とても読みやすいです。

一話ごとに登場人物の視点が切り替わることで分かるのは、『娘の家出』の世界は自由であるということ。

性別も年齢も立場も当たり前に飛び越えて、みんなが好きなことをしている。外からの否定に振り回されることなく、自分に素直で、そして他人に自分の人生の責任を押し付けない。

「自分は自分、人は人」という線引きが、親子であろうと存在する。当たり前に、自分の人生に自分で向き合っている登場人物たち。志村貴子先生の描く彼ら彼女らの生き様は、本当に心地よいんですよね。

実は性描写も多い本作ですが、「好きだからする!」「したいからする!」という潔さで、そこにも爽やかさしかありません。

"性別"を理由に悩むことのない”当たり前”の恋愛観

志村貴子先生の作品には、思春期に加えて「セクシャルマイノリティ」というキーワードがあります。

本作でも女の子同士の恋愛や、男の子が男の子に片思いするお話が、”性別”を理由に悩むのではなく、純粋に一つの恋愛として悩むお話として描かれています。

大人のお姉さんでも年下の彼女への独占欲を丸出しにするし、親友に恋をしている男の子は、親友のめちゃんこ美人な彼女に意地悪をする。何も変わらない"普通"の恋愛が描かれています。そして、周りの人たちがそれを"普通"に受け止め、たしなめたり、励ましたりする。性別を理由に何か言う人が、いるわけがない世界。

残念ながら今はまだ、これは非現実的な世界です。こんなに世界は優しくない。けれども、本当はこうあるべきだという世界を、妙な肩肘を張らずに"当たり前"に描くことができる志村貴子先生は、やっぱり天才だと私は思います。

「私は、私でいてもいいんだ」と勇気をくれる少女たち

なんだか人付き合いに疲れてしまった時、自分と向き合うことに疲れてしまった時、『娘の家出』を読んでみてください。きっと「私は、私でいてもいいんだ」と、家出をする少女たちがあなたに勇気をくれると思います。

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『娘の家出』(志村貴子/集英社)2巻より引用

WRITTEN by 本村もも
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