見出し画像

今を生きるための現代詩 / 渡邊 十絲子

私にははっきりと、詩を含む文学を"学ぶ"ことからはぐれてしまった自覚があります。幼い頃の私は、作者の伝えたかったことを読み解いて正解や不正解を決められることが、なんだかどうしても腑に落ちなかったのです。

この本は、詩を読むってもっと自然でいいんだよというところからはじまります。詩は「よいもの」「美しいもの」「読みとくべきもの」なんかではなく、わからないけれど好きと叫んでよいものだということです。「わからない」の謎の種をながい間こころにしまって発芽を待つ。急いで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する必要もない。「わからない」状態にながく身を置くたいせつさを教えてくれます。

”現代詩”というと複雑で難解なイメージです。詩に限らず、こねくりまわしたもの奇をてらったものは馴染まないし、逆にやさしくて伝わりやすい安っぽいものも、なんか違う。うまく説明できないのですが、こずるい感じがするものは苦手で、誠実な感じがするものが好きなのかなあと思っています。
ここでいう「誠実さ」というのは、受け手へのわかりやすさだけを目指すんじゃなく、詩ならば「ただことばの美を実現」するのにやみくもになることだし、それが(文中のことばを借りれば)「人から遠く遠くはなれたところに飛んでいき、目のくらむような、光りかがやく孤独を手に入れること」ではないでしょうか。


「わからないけれど好き」、たとえば音楽や絵画なんかは言いやすいです。「英詞で何を歌っているかはわからないけど、わくわくしてしまう」とか、「何を描いてるかはわからないけど、圧倒される」とか。意図が汲めなくても好きになるのは簡単。詩は、それぞれのことばは理解できるはずなのに何が言いたいのかがわからないストレスを乗り越えて「だけど好き」まで到達するのはなかなか難しい。もっと感覚的に読めればいいのですが。

写真は、その余白が多いというか、意図と解釈のずれがむしろ歓迎されやすい気がします。

「よむDAYZ.」というサイトで写真と文のコラムを連載しています。説明もなしにぽいっと渡した写真に、みちさんが短い小説のような文章をつけてくれています。毎回、写ってる子のことを知ってるんじゃないか?というようなセリフが出てきたりして、不思議な気持ちで楽しく読んでいます。

もうすぐ公開される予定の次回のコラムでは、この写真にケンカの(仲直りの)文章をつけて返してくれたので、びっくりしてしまいました。友人との昼下がりの優しい時間を撮ったものだったからです。みちさんには聞いていないけれど、どこかにそういう影を感じたのでしょうか。
どんな時をどんな意図で撮ったとは関係なく新しいストーリーを見つけ出せる、その神秘性が写真の魅力でもあるし、全く別のよみ方をしてくれることがこんなにうれしいんだという発見でもありました。


「人は変わっていくもので、不変の自分というのはときに有害なフィクションである。」

「不変の自分。ほかの誰ともことなる唯一の自分というものを確立して生きていくのは不自由だ。自分ひとりが不自由なだけではない。みながこのような不変の自分をふりかざして生きると、行きつくところは場所のうばいあい、力の比べあい、屈辱と報復、そんなうんざりする序列の世界である。」

「自分をうつす鏡としての相手があってはじめて自分の”人格”はうまれる。自分とは相対的なものであり、その場かぎりのものだ。」

これらは井坂洋子さんの詩の紹介のなかで語られていることばです。「不変の自分」という有害なフィクションを彼女の詩はかろやかにくつがえしている。われわれはすべて「人の皮」をかぶった野蛮なものとまで表現する、のびやかな自分像。これは詩の解説のことばにとどまらず、この本で一貫して伝えたいことのような気がします。「わからない」でいい、今日と明日の感じ方が違ってもいい。ゆらぎのある自分を肯定しながら、もがき続けることのたいせつさ。


私はある人には根暗でネガティブだと言われるし、ある人には能天気なひょうきん者だと言われます。やかましいわいと反発したくなることもありますが、結局はどれも自分であって自分じゃない。いろんな見え方がおもしろいなあと受け止めています。
この本はそんな自分をもまるごと肯定してくれるようで、現代詩の解説書というより、生きにくい世を少しでも生きやすくするための本に感じました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?