3.12 せめて、思い出すために
昨日のことをどれだけ覚えていて
1週間前のことをどれだけ覚えていて
1か月前は、半年前は、1年前は、5年前は、もっともっと前のことは
どれだけ覚えているものなんだろう。
もちろん鮮明に覚えていることだってある。年末、1年を振り返ったときにその年を代表するような強烈な出来事とか。すべてを忘れるわけじゃないからね、たくさん覚えている日々があることに間違いはない。
去年2022年、私のなかでひと際輝く日々だったザンビアでの2週間。日本に帰ってきてから何度も反芻したし、何度も人に話したし、何度も写真を見返した。些細なことが、どこにでもある日常が、自分の住む場所から遠く離れたところで、言葉も100%通じるわけじゃない子どもたちと、こんなにもあたたかく美しくつくれるんだなあ、と泣いた。覚えてるに決まっている、小さなことまで。それほど大切で大切で、ずっと手放したくない毎日だった。
今日そのときのことを記録したメモをたまたま見つけた。
あの毎日のことを思い出した。思い出す、という行為に息がとまった。
あれだけずっと覚えていると思っていたことが、私がずっとこの手の中に持っていると思っていた日々の記憶が、私のなかから一度出ていって、また帰ってきた、だから、思い出している。
ずっとずっと覚えていたんじゃなくて、思い出した。
絶対に絶対に手放さないと思っていたあの日々のことを、一度手放して、またたぐりよせた。
どれだけ気づかぬうちに忘れてしまったことがあるんだろう。なにかきっかけがあればまたたぐりよせることはできるかもしれない。だけど、そのきっかけを待つばかりで、私がどこかに置いてきてしまったあの瞬間もきっとあって、もう二度と私のもとに戻ってきてくれることはないのかもしれない。
怖くて怖くてたまらなくなった。
いくら大切に想っても、覚えていられることはきっと少ない。本当にちっぽけなものでしかないならば、せめてせめて、思い出せることはたくさん増やしておこう。ちいさくとも尊い瞬間を手放してしまった自分が、またたぐりよせることができるように、たくさん残しておこう。
そうじゃないと、怖くて仕方ないよね、やってけないよね。
すれちがうたびに、sleepy girl!って笑いながら呼んでくれたこと
おいしそうに真っ赤なトマトを食べていたこと
いっしょに落ち葉の掃き掃除をしたこと
寝っ転がって空をみながら星座の名前を教えあったこと
本当はもっともっとあるはずなのに。もうどうしようもない、なんて言葉で片づけたくはないけど、せめていま手元にあるものたちだけはもう置いていかない。
思い出せる、そんなものたちをもう手放さない。
少しというか、かなり、悲しくなって、なんでなんだよって思って、だけどせめて今日からは、と思った夜でした。
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