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74. はじく

 ロンドンの子どもは、羊はじきをして遊ばないのである。
 と、言うことを最近知って驚いた。
 けれど、それはもちろん考えれば当たり前のことであった。都会には羊がいないのだ。だから、羊はじきをしようにもできない。
 わたしの生まれ育った田舎では子どもの時分よくやる遊びなのだが、知らない人のために一応どういう行為なのか説明しておく。
 羊はじきは、文字通り指で羊を弾く遊びだ。
 もちろん、目の前に家畜を連れてきて、親指と人差し指を構えて痛めつけるようなことはしない。のんびりした動物に見えるが危険を察知して逃げる足は素早いし、近くで見ると案外大きい。弾いた方が怪我してしまう。
 それに羊は食に貪欲だから、放牧する土地はかなり広い。だからそれで生計を立てる地方の集落は、家が点在して、周りは平地ばかりなのである。小屋周りの餌などすぐに食べつくしてしまうから、身近であって触れ合う機会はほぼないのだ。
 学校へ行くにもちょっとした用事にも車が必要となる場所に住んでいると、子どもには行動制限がつく。
 何かあったら、車で迎えに行ける場所にいなければならない。歩いて移動できる場所はあれどどこにいても良いわけではないから、学校や習い事のセンターなどいつも同じ場所に拘束されがちだった。
 町はなだらかな山に囲まれていたので、そういった教育施設の窓から丘を望むと、点在する羊が距離によって、豆粒に見えたりみかん大に見えたりしていた。
 そういった、ちょうど良い大きさにある羊を探して、指先で打つのである。
 ちょうど良い大きさ、というのは、目的によってサイズが変わるからだ。例え羊はじきに慣れている子でも、やっぱり小さすぎる標的では加減を間違えて、吹き飛ばしてしまったり、爆ぜさせてしまうのでよろしくない。家畜は財産であるから、基本的には殺してしまってはいけないのだ。
 初心者はだから、大きめの羊のおしりを指先でつついて、押すことから始める。慣れたら躓かせたり、数メートル先へ弾くなど、様々な方法で羊を弄る。
 もっとも高度な技は、つまみ上げて移動させることだ。
 恐々と、羊毛だけつまんでは自分の重みで毛がちぎれる。かといって上手く持ち上げないと、押す力が強すぎて羊の内臓が破裂してしまうのだ。
 特に何か点数を競うことはない、意味のない子どもの手慰みである。
 羊としてはいい迷惑だし、牧場主にとっても、危害を加えられる恐れがあるので歓迎されたものではない。だが、他に娯楽と言ったものがない田舎のことだから、多少のことは大目に見られていた。
 それに羊はじきの上手い子は、呼ばれて崖に取り残された羊を救出するなど、小遣い稼ぎができることもしばしばあったので、子どもなら誰もが一応は手をつけてみる遊びだった。
 わたしの父は銀行員だったが、親族が牧羊と農場を経営していたので、暇つぶしではなく羊はじきをよくした。
 あまり力加減は上手くなかったので、主な仕事は野犬をはじいて排除することだった。だからわたしに限って言えば、野犬はじきと改名できる。
 たまに寄生虫病に伝染した羊を、始末することもあった。これは症状次第で毛皮を取れたので、ふたつの指先で頭をつまんで、ちょっと捻るのがコツだった。
 わたしは中指に動物の骨が当たる音が好きだったので、薄給でも快く家業を手伝っていた。
 腹に当てれば、複数の薄い骨が連鎖して折れる。けれどそれだと全体がぐにゃぐにゃになって、死体の片づけが難しくなる。頭蓋を潰すのが一番面白いが、中身も飛び散りやすいので、後の掃除を考えると指で上から首を押すのが最適だ。面白味には欠けるが、ぷつと途切れる感じは無心になれた。青春時代を小さな集落に縛り付けられた鬱屈の、気晴らしの手伝いにはなったと思う。
 やがて就職し、ロンドンに出てきた。
 激務と田舎者には難解な人間関係に疲れて無性に羊はじきがしたくなったのだが、冒頭の通り、都会には羊がいないのである。
 一度同じようなものかと思い、リッチモンドまでわざわざ電車を乗り継いで鹿を狙いに行ったのだが、人目が多すぎるので諦めた。突然鹿が弾けては、騒動になってしまう。それに鹿の数は自然公園が、きっちり管理しているという。
 念のため、群れを外れた若い一頭で試してみたのだが、羊や野犬よりも抵抗があり、角が邪魔になるのですぐにやめた。指の当たりどころが悪ければ、こちらも怪我をしてしまいそうだった。
 仕方がないので、たまに街中でハトをはじいた。
 二ペンスで餌を、の歌の真似をすると、ロンドンでは違反切手を取られる。市内においてハトは不衛生で生活から排除したい、けれど数が多くて持て余している害獣なのだ。
 正直に言うと、鳥類は弾いても感触が軽くて物足りないが、代わりに簡単にはじけ飛んでわからなくなるので、後のことを考えなくて良いのが利点である。駆除対象と思えば気兼ねもいらない。
 そんなわけで、駅前の広場で、公園で、息抜きにコーヒーを淹れるオフィスの窓から、ハトを見つけては弾いて遊んでいたのである。こちらのストレスは無尽蔵で、ハトはどこにでもいる。止める道理がなかった。
 ところがある休日のこと、公園内のカフェに入り、目につくハトを殺していたら、一羽のモリバトが近寄ってきた。
「汝、何故あって同胞を弑するか」
 モリバトは大きな薄桃色の胸を張り、床からわたしを見据えた。
 突然のこともあり、まさかハトに話しかけられるとは思ってもいなかったので、吃驚したわたしはほとんど反射的にハトの頭を指で狙った。
 足元のそれは、指で弾くには近すぎた。右目から斜めに頭半分を吹き飛ばされて、ハトは倒れて動かなくなった。幸い誰も見ていなかったので、隣の席に捨ててあった新聞紙でそっと包んで、身近なゴミ箱にそれを捨てた。
 するとまた、別のドバトがやってきて、同じ質問を繰り返すのである。
「怨恨ありきか」
 カフェの店内へ戻り、カウンターで紙ナプキンを貰うふりをして、ガラス窓の向こうのハトを弾いた。
 勢いよくしたのが功を奏して、ハトはぱちんとその場に霧散した。上がった音に子どもが振り返ったが、幾ばくかの羽根が浮いているだけで、何も見つけられなかった。
 家路の赤信号でまた別のハトに声をかけられた。
 今度のは黒っぽい。違う個体なのである。
 いよいよ薄気味悪くなって、ほとんど走るように家に帰った。
 ほっとしたのも束の間で、気が付くと窓枠にびっしりとハトが並んでいる。一羽がまた、同じ言葉を繰り返した。わたしにはハトを弾くと言う発想さえなく、慌ててサッシを叩いたので、鳥は逃げ、ガラスは角が割れてしまった。
 段ボールとテープで隙間を覆った窓の向こうから、常時ぼそぼそと声がする。
 二日ほど我慢してみたが、放置したところで状況の好転は叶わないと見切りをつけて、ハトの話を聞くことにした。
 キジバトはなにやら小難しい言葉を選んで言いたいように言っていたが、要するにハトはじきをやめるなら、これまでの悪行は寛容するということだった。
 表面上悔いる体をとって大げさな反省文を並べ、胸に手を当ててそれに誓った。代表者を囲う鳥たちも、それで満足のようだった。
 感心なことに、ハトは代替案の提示も忘れなかった。
 禁止するだけなら角も立つ。愚鈍な鳥獣と考えていたが、その認識は改めようと思う。そして提案は、いちいち納得できる内容であった。
 そうして、ハト弾きもしなくなった。
 けれど相変わらず、駅前の広場や公園、息抜きにコーヒーを淹れるオフィスの窓から、ものをはじいて遊んでいる。ハトなどに教えを乞うなぞ業腹ではあったが、確かに新しい標的は見つけやすく、上手く弾き飛ばせなかった場合でも、思ったほどの騒ぎにはならなかった。
 ハトよりも数が多く、多少いなくなっても気が付かれず、また嬉しい誤算として、指先の手ごたえが小動物などの比ではない。
 懸念していた罪悪感も、それほどでもないのである。


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。