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20.押し入れのトーティ

 僕の部屋の押し入れの中には、人を殺して食った犬が住んでいる。
 少なくとも、そういう噂をされている。
 本当に食ったのか、実際にはわからない。食べられたとされる遺体は発見が遅かったため損傷が激しくて、肉をちょっと齧られていたくらいなら、わからない状態だった。事件発覚から三週間も過ぎた今となっては、例え犬を解剖しても、証拠は出まい。
 犬は、名前をトーティという。
 小さな黒いピンシャーなのに、「サビネコ」と呼ばれていた。
 亡くなった伯母の飼い犬だった。正確な年齢はわからないが、十二歳以上ではあると思う。僕は子どもの頃、一時伯母に預けられたことがあったので、その頃遊び相手になってくれた、幼馴染みなのである。
 だから、性格をよく知っている。
 伯母を殺すくらいなら、トーティは家出しているはずだ。
 それなのに、多くの人間はトーティを有罪と決め込んで、葬式の後、伯母の家で開かれた食事会で、不気味な犬を殺処分にしろと怒鳴り散らかしていた。
 正直に言うと、確かにトーティは見た目のよろしい犬ではない。
 いつも怒ったような顔をしている。それで引っ込み思案、という誤解を受けやすい性格でもあるから、本質を知らない誰もが引き取ろうとしないのは、当然かもしれなかった。
 でもだからといって、即死刑はひどすぎる。
 それで僕は、親類がいる居間からそっと抜け出し、裏口に繋がれていたトーティをリュックの中に押し込み、知らん顔で自宅へ持って帰ったのだった。
 僕と父が退出したとき、事はまだ発覚していなかった。けれどその後もトーティ行方不明の連絡が来ていないのは、いなくなったのを幸いに、忘れてしまうことに決めたのだろう。僕の親類は、そういう輩ばかりだ。
 ひょっとしたら、父は気が付いているかもしれない。
 僕が彼女に言い含めた通りに、トーティは一声も鳴かず、カバンの中で粗相もしなかった。けれど、隙間からじっと、あの大きな緑の目で見つめられていたのを、見なくても肌に感じていた。運転席と助手席の距離だ。例え運転に集中していたとしても、父が全く気が付かないはずがない。
 けれど父は言及せず、僕たちを送り届けた後も音沙汰はない。
 だから僕も何も言わない。関係が希薄なのは、母が亡くなって以来だ。不仲なのではなく、ただお互い単純に、不器用な性質なのである。 
 そういうわけで、僕の家の押し入れにトーティが住んでいるということは、僕らしか知らない。
 押し入れから、出てこない。
 以前はもうちょっと活発な犬だった気がする。閉じこもっているのは伯母の死が堪えているのかもしれないし、単純に老年になって、動くのがめんどくさくなっただけかもしれない。なんとなくだけれど、どちらも半々である気がする。
 まだ一緒に暮らし始めて二週間くらいだから、十年以上のブランクを埋め、お互いをよく知り合うには、ちょっと時間が短いのだ。
 押し入れと言ってもちょっとしたウォークインなので、片手に乗るほどの小型犬には十分な広さがある。
 水とおやつ、一応トイレの用意があって、クッションと毛布、それから登って遊べるように箱を積んで置いてある。おもちゃは少ない。だから暇になれば衣装かけにぶら下がったり、枕棚によじ登ったりして遊んでいるらしかった。
 普段は観音開きの一方を半分くらい開けておいて、掃除する以外は放置する。
 本心で言えば、全開にしておきたい。気が付くと、左唇の欠損で歯がむき出しになっている犬が、静かにこちらの様子を伺っている、なんて、いつも全身の血が引くほど驚くから。
 でもお互いにプライベートを尊重することが、同棲を長引かせるコツであると思っているので、無理強いはしない心構えでいる。
 ただし、食事だけは一緒にとることに決めている。
 時間がないのでトーティの朝は市販フード、念のために置き餌は続けているが、昼は食べた気配がない。
 夜はふたり、同じものを食べる。
 僕はサラダかスープで軽く済ますことが多いので、それに味を付ける前に取り分ければ、手間はかからない。特にスープだと、トーティの食べっぷりが良いような気がする。
 食生活にはちょっと気を遣う。
 仮に人食いであるとしよう。
 人肉に味を占めていたとして、小柄な犬のことだ。本気で襲われることがあったとしても、恐らく即死はしまい。けれどトーティは頑固だから、一度食べると決めたら、絶対に途中では止まらない。
 だから防犯的に考えて、トーティが空腹にならないよう、気を付けてはいる。
 人食いの噂は信じていないが。
 信じてはいないが、小心者なので、どうしても万が一を考えてしまうのだ。十中八九、トーティは肉よりも、りんごの方が好きだと、わかってはいるのだけれど。
 そういう素振りがあるのか、と聞かれれば、そんなことはない。
 トーティは引きこもり、トイレとごはんの時間には這い出してきて、ごくたまに僕が何をしているのか覗きにくる。生活は穏やかだ。不満はなさそうだし、改善を訴えられたこともない。
 犬は時々、サビついた声で鳴く。
 普段は滅多に声を出さないのに、夜中のクローゼットから鋭く、短い悲鳴が聞こえることがある。
 同じ部屋のベッドで寝ているので、声にはちょっと驚かされる。おおよそ動物の声には聞こえず、最初は何の音かわからなかった。
 トーティは、昔はこんな声ではなかった。
 それがどうして、喉が潰れてしまったのか。
 ひょっとしたら――鳴きすぎて枯れてしまったのかもしれない。
 例えば、目の前で倒れた主人への救命に、必死に声を張り上げたりなどして。あの家は大きいから、小犬がちょっと騒いだくらいでは、どうしようもなかっただろう。でもトーティは、あの偏屈な伯母の犬なのだ。倒れてから発見されるまで、小さな身体には途方もなく長い時間、一途に助けを求め、諦めなかった。
 そして話せなくなってしまった。
 なんて、ただの妄想だ。
 しつこく繰り返すけれど僕は、トーティが伯母を殺して食べた、とは思っていない。けれどそれはわざわざ殺してはいないと言う意味で、実際に食べたかどうかはわからない。
 現場には空のペットフード袋が散乱していた、ということは、最後の日々には餌がなかったということで、それならしょうがなく「あったもの」で食いつないだからといって、誰がトーティを責められよう。
 確信しているのは、伯母は年を取ってすこし干からびていたし、関係ないかもしれないけれど毒舌で頭が固かったので、美食家の犬が好んで齧りついたはずがない、ということだけだ。
 それに犬からしてみたら、話はまた違うのかもしれない。
 あるいは愛していたから余計に、食べなければならなかったかもしれない。死んでしまったものを、これ以上失わないために。
 もちろんそれだって、誰にもわからないことだけれど。
 犬は今日も、ギイと鳴く。
 木製のドアが軋むような、断末魔のような、気の毒なほどに耳障りな音で。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。