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99. おしまい

 嵐の夜、内外の皮が裏返しになったキツネがやってきて、アヒルの卵をカエルに孵化させろという。
 翌日、病院へ行った。
 まず精神科の受付へ行ったのだけれど、熱を測ってみたら四十度近くあったので、緊急外来に回された。キツネのあれこれは、熱せん妄であろうとのことだった。四時間点滴をしてもらって、家に帰った。
 夕方を過ぎると薬の効果が切れ、高熱が戻ってきた。ベッドに行くのも億劫になり居間のソファで倒れていたら、また裏返しのキツネがやってきた。
 今日は前後ろが逆さまだった。
 グロテスクさは控え目になったが、眼球があるところが盛り上がって時々動いているのには鳥肌が立った。もちろん、後ろには赤い穴が二つ開いている。
 早くアヒルの卵を孵化させろという。
 そんなもの、手に入れる手段がない。ごく稀にスーパーマーケットでパックを見るが、あれはイースターなど特別な時期の限定品で、いつでも買えるものではないのだ。
 熱で朦朧としながらぞんざいに答えると、ある大型の公園の中にある浮島に、ひとつ放棄されたものがあるから、それを手に入れよとキツネが指示する。
 ボートを借りれば容易に手が届く場所だというのだが、僕は言下に断った。まず第一に僕は水の乗り物がきらいであること、そして苦学生だからボート代が惜しいことが理由だ。
 それに、キツネの欲求は難題過ぎる。
 カエルも、ただの両生類ではいけないというのだ。
 なんでも、ギアナ高地に住む跳べない種類でなければならないらしい。そんなことを言われても困る。僕は南アメリカに住んでいないし、ぬるぬるした両生類は得意ではない。
 熱が上がってめまいがするので、キツネには帰って頂いた。
 次の日、一日うつらうつら寝て過ごした夕方早く、またキツネがやってきた。
 今夜はちゃんと毛皮を着ているのか、確かめることはできなかった。飲まず食わずで病床から立ち上がることもできず、呼ばれてもドアを開ける気力がなかったのだ。カーテンが引かれっぱなしの窓の向こう、声がするので来訪に気が付く。
 早くしないと、お前は呪われて死ぬぞ、とキツネが窓の下から繰り返し脅すのを、黙ってベッドで聞いていた。
 思えば僕は、よく動物に絡まれるのである。
 幼少時、近所の猫に詩集を盗まれたことがある。
 公園で本を読んでいたら猫がやってきて、「お前にワーズワースはもったいない」と言い残し、それを奪っていったのだ。
 まずいことに学校の蔵書だったので、猫が飼われている家へ、返してくれるように頼みにいかなければならなかった。飼い主は不審な顔を僕に向けたが、後日洗面所のタオルの間に挟まっているのを発見し、家まで返しにきてくれた。
 あとはカラスにシャープペンシルの芯をカツアゲされたり、ドライブ先で会ったアヒルにストーキングされて家に居付かれたり、どうも下に見られやすい。
 キツネが何をしたいのかは知らないが、他人に呪いをかけてまで成就したい切実な何かがあるような気がして放置できず、とりあえず病院へ相談しに行った。
 医者はちょっと困った顔をして、キツネは熱による幻想だから、呪いで死ぬことはないと断言した。だからそれは放置すれば良いけれど、このまま高熱が続けば危ないから、少しでも悪化したら迷わず救急車を呼ぶように、絶対に歩いて病院に来ようとしないように、と何度も念を押す。
 僕は頷いてイスから立ち上がり、そのまま倒れて入院した。
 母が着替えを持ってくるよりも早く、フリージアの花束を持ったキツネが病室にやってきて、ほらみたことか、と言い捨てた。今日も毛皮は内外表裏だった。血のついた足跡が点々と、清潔な病棟の廊下に残っている。
 靴の汚れは落としてから入ってください、と入り口から顔を出した看護師が、眉を吊り上げて裏返しのキツネを見た。


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。