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90. 夢で見た

 夢を見た。
 少女が泣いている夢だった。
 身長で判断するならもう女性と言ってもよいのだが、仕草や言葉があどけない。教養がない、と言い換えることができるかもしれない。言葉の端に、聞きなじみのない訛りがある。
 見た目も薄汚れていた。破れてぼろきれとなった泥まみれの服を着て、右腕は切り落とされてなかった。そして、ひどく痩せている。
 空腹を訴え、人の冷たさを嘆き、少女は泣き続けていた。覆った口元から零れる声が、段々と低くなっていく。伏せた顔は見えないが、毛が逆立って、追い詰められた獣のようだった。
 わたしはパジャマ姿で、立ったままそれを見ていた。
 その空間には、わたしたち以外に何もない。天も地も白一色、遠くも近くも同じ色をしていた。どのくらいの広さがあるのか、あるいは果てがないのか、見当すらつかない。
 裸足の下に影があった。
 ではここが下か、と思った途端、同じ高さに座り込んだ少女がわたしの前方に現れた。それまで少女がどこにいたのだったか、わたしにはもう思い出せない。
 少女は泣き続けている。
 わたしはそれが気の毒になって、パジャマのポケットの中を探った。ほんとうなら、寝間着にポケットなどないのだが、夢の中なのでそれがあって、レモンキャンディがひとつ入っていた。
 おずおずと近寄って飴を差し出すと、埃だらけの髪をした少女は何が起こったのかわからない顔で、きょとんとわたしを見つめた。あげる、と言っても受け取らない。
 けれど、少女は泣き止んでいた。
 確か、最初にその夢を見たのは幼稚園の頃だと思う。
 幼児だからいつまでたっても反応のない少女に飽きて、キャンディをポケットに戻し一人遊びをしていたような気がするが、何度か同じ夢を繰り返して、やっと少女が飴を受けとり、わたしたちは友達になった。子どもとはそういうものだった。
 わたしは少女が汚いと文句を言い、破れた服を脱がせた。裸になると、少女は寒いと嘆いた。
 その頃にはもう、何もなかった空間にはわたしのベッドとおもちゃ箱が、自室と同じ配置で、しかし壁はなく存在していたので、わたしはシーツを引っ張りだして、少女に被せてやった。それに包まって、安心した少女は眠りはじめた。
 一緒に遊ぶつもりだったわたしはそれが不満だったが、その穏やかな寝顔を見ては何も言えなくなった。落ちくぼんだ目の下にある隈は、まるで人間の顔にあるべきものではなかった。少女はこれまでにない安らかな表情をしている。
 床の上で転がる友人が気に入らなくて、わたしは彼女をベッドまで運ぼうとしたのだが、いくらやせ細っていても幼児が大人を移動させられるはずもなく、しょうがないので枕を頭と床の間に挟みこんだ。
 そうして、何日か少女が眠り続ける夢をみた。
 奇妙なことに、夢で少女に与えたものは、現実から消えてしまうようだった。
 枕はカーペットの上に落ちていたけれど、少女が身に纏っていたシーツは見当たらなかった。母はわたしがおねしょをして、隠してしまったのだと決めつけた。理不尽に叱られたわたしは不満だったが、それでも彼女が寒い思いをしていないのならと、我慢をした。
 わたしは現実で、おやつに出されたものを引き出しにしまうようになった。
 夜になると、それを少女と分け合って食べた。何の変哲もないつまらない駄菓子でも、少女は甘味であるというだけで驚いて、大事そうに少しずつ噛みしめた。
 時々、給食の残りのパンや果物も持って帰って仕舞っておいた。そういうとき、おなかがいっぱいだと言って、少女が泣くのを不思議に思った。
 少女の右腕は、夢だというのにいつまで待っても生えてこなかったので、わたしは業を煮やして夢に妹の着せ替え人形の腕を持ち込んだ。
 無くなった腕に差し込んでやると、プラスチックの小さな腕は少しずつ大きくなって、片腕と同じほどに成長した。妹の人形は褐色肌をしていたので少女の肌と一線を画していたけれど、新しい手首に頬ずりをして喜んでいる姿を見ると、わたしも気分がよかった。
 垢だらけの少女を洗うために風呂場が現れ、遊具で一緒に遊ぶために公園の一部が現れた。
 わたしが中学生になる頃には、少女はすっかり明るくなって、すっかり普通の女の子と同じになった。
 思春期の男子を前に、いつまでも裸でいては困る。思案の末、天井裏から無くなってもわからない、祖母の遺品から死蔵の服をプレゼントしたところ、少女には少し大きすぎたようだった。
 もう少女はやせっぽっちではないし、小柄だった祖母の服で合わないはずがない。少女は少し若返って、背が縮んでいるようだった。
 しょうがないので、妹の服を一枚くすねて渡した。
 もうそろそろ小さすぎるというものだったから、母はあまり気にしていないようだったが、お気に入りの一枚がなくなった妹は大泣きした。わたしは罪悪感から、なけなしの小遣いをはたいて新しいワンピースを妹に買ってやった。
 義務教育の終わり頃、わたしたちはほとんど同じ年頃になっていて、わたしが大学に入って一人暮らしを始めた頃には、当初と年齢が逆転していた。
 自炊するようになって、きちんとした食事を少女に振舞えるようになった。
 どうも年代として中世の貧しい農民出という設定であるらしい彼女は、当然のように別の国の料理など知らない。ハンバーガーに目を輝かせ、恐る恐る口に入れたサシミを吐き出す姿を見ると、心が洗われるようだった。
 就職して何年かまで、そうして一緒に食事をした。
 ほんの小さな子どもとなった少女は屈託なく、初めて会ったときの悲惨な表情はすっかりなりを潜めて、腹いっぱい食べ、夜を通して無邪気に遊んだ。
 そしてある日、突然夢を見なくなった。
 見なくなってから、わたしは自分が彼女の名前を知らないことに気が付いた。
 推測しようにもとっかかりすら記憶の中に見つけられない日々を経て、いつしかどんな名前ならば彼女に相応しいか、考えるようになった。
 全くなんの根拠もないのだけれど、この先のいつかどこかで再会するだろう確信がある。
 その時、わたしが考えた名前が正しいか、答え合わせするのを楽しみにしている。


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。