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70. 迎え

 雨が降ってきたので駅まで迎えにいったのだが、彼女は帰ってこなかった。
 それは当然のことだった。だって、僕たちはずっと昔に別れているのだ。彼女はもうこの街には住んでいないと思うし、僕がまだここにいることも知らないだろう。そういう別れ方をしたのだ、僕らは。
 そんな何年も昔のことなのに、雨が降ると、こうして彼女を探しにきてしまう。
 彼女は、傘を持ち歩かなかった。
 その習慣は雨の多いイギリスでは、そう珍しいことではない。朝から土砂降りでない限り、雨具を手にしない無精者は多いのだ。
 小雨ならフードや帽子を被り、そうでないなら、雨が収まるまでどこかに避難する。まあ、タイミングが合わなければ大雨の中でも、そのまま歩くこともある。濡れることを苦としない。
 けれど僕は気になるので、彼女の帰宅時間に雨が降っていると、駅まで迎えに行った。
 僕たちが暮らしていたアパートは住宅街の中にあって、家まで雨宿りできるようなところがない。大した距離ではないけれど、一日の最後にずぶ濡れにさせたくなくて、恐縮されながらも続けているうちに習慣となった。帰る人がなくなった今になっても続けている。
 この辺は一軒家が多い。生垣が続く、緑豊かな通りを過ぎる。少し早足に、六時には間に合うように。
 駅はいつの時代に建てられたのかは知らないが、よく見られる古いスタイルだ。明るい色のアンティークのタイルが、なかなか洒落ている。
 何という建造様式なのかは知らないが、現代でも古臭いとは思わない。流行というものは巡るものだからか、隣の建物に入ったピカピカのコーヒーチェーン店の看板とも、ケンカせず調和がとれて見えた。
 美しい駅だ。
 雨のたびにやってきて眺めているのに、この光景は一向に飽きると言うことがない。
 交差点の、ちょうど角にある。川を上がった先にある、小さく奥ゆかしい家々の庭を通り過ぎた先に、ぱっと現れる青と赤のチューブのマーク。いつ見ても、暗闇の中に現れる救世主のように思える。
 駅の出入口、カフェのウィンドウとの隙間に立って、僕は帰らない彼女を待つ。
 隣り合うのは、ただ一人。
 僕の定位置は庇のあるギリギリの場所だから、小雨で雨宿りの人が少ない場合、濡れるかもしれない隅まで人は来ない。大雨で多くが駅にて足止めを食っている時なら、皆はかえって改札口の前まで引っ込んでしまう。それでも入り口が平坦だから、激しい雨だと飛沫で濡れるのだけれど。
 僕の雨宿りの友は、私学に通う少年である。
 いつも糊のきいたシャツを着ている。大人しそうな子で、顔色が冴えない。けれどこれは、ひょっとしたら低気圧に弱いせいなのかもしれない。晴れた日に会ったことがないからわからない。
 出会った頃は、ほんの小さな子どもだった。そわそわしながら横に並んで、怯えたようにただその前、雨が落ちるのを見つめていたのを憶えている。
 彼が駅の外、人気のないゴミの溜まるような隙間で迎えを待つのには、理由がある。
 出入口と通りの間、歩道には自転車置き場があって、ここ以外でスムーズに車道へ出られないからだ。母親の迎えの車はこれより少し手前に乗りつけるのが常で、もしも後から雨宿りが増えてしまうと、入り口から雨の中へ出なければならなくなる。最初から隅に立っていた方が、濡れにくいと考えているらしい。
 過保護な母親は、彼が少しでも濡れることも、歩いて帰ることも許してくれないらしい。駅についた少年は電話をかけ、母親がやってくるまでのそれなりの時間を、孤独に過ごさなければならなかった。
 今日も少年は、隣に立って迎えを待っている。
 いつの間にかわたし達の間には、雨宿り仲間の絆が生まれていた。
 といっても、会話さえしたことはない。最近の法律は、未成年の保護に過剰なほど熱心なのだ。学校では見知らぬ大人が話しかけてきたら犯罪者と思えとしつけている。だからわたしたちは視線のみ、無言で雨の日の挨拶を交わす。
 時々、上着のポケットに入っていたものを進呈する。
 それはビー玉だったりプラスチックの人形だったり釘だったりするのだが、なにを差し出しても少年は拒まない。両手で受け取って、そっとリュックのポケットに仕舞う。今日はしかし、学校指定のカバンはもっておらず、代わりに手にしたスリーブに、ビールの王冠を収めた。
 はた、と僕は、少年へ振り返った。
 ずいぶん久しぶりに会った気がする。そういえば背も、僕とほとんど変わらない。青白さは相変わらずだが、少年はいつのまにか、精悍な顔つきの青年に成長していた。
 もうそんな歳月が経っていたのか、と驚いていたら、青年は僕をまっすぐに見つめている。
「ありがとう」
 青年は初めて、礼を述べた。
 もちろん、大人同士の我々が言葉を交えたところで、問題になることはない。けれど、返事が出なかった。喉から零れたのは、水草交じりの水と、黒い泥だけ。
「まだ、誰かを待っていたんですね」
 と青年は言った。
 まるで異国の言葉に思えるそれだけを呟いて、雨宿りの元少年は、また静かに街へ滴る雨を見ている。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。