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24.ワールドエンド2

 ただやり過ごすだけでは、テイムズ河の怪事から、サーシャの頭は離れられないようだった。
 まだ夜も早いロンドンの地下鉄。都心へ向かっていた先ほどの車内とはうってかわって閑散とした車両の真ん中に、ぽつりと黙り込んで二人で座っている。
 少女は背中を丸めてじっと自分のつま先を注視し、同伴する少年は隣をちらちら盗み見ては、壁に張られた広告を読むふりをしていた。
 つい数十分前に、世界的に有名な運河で白鳥が大量死しているのを見たところだ。
 それだけで幽霊になる前は一般人だったモモには驚き恐れるのに十分であるが、元魔女見習いのサーシャは、あれは全て魔女であったと言う。
 死体が動物であるのとそうでないのとでは、事の重大さは段違いである。大事になれば、捜査進捗がその都度、ニュースに取り沙汰されておかしくない。ただの目撃者に過ぎない彼らでも、成り行きを知ることはできるはずだと、モモは逆に落ち着きを取り戻し始めていた。
 しかし、それは一般的な人間の感覚で、サーシャはそんなことはないと言う。
 まず「そもそも、わたしはもう見習いでもないのだから、関係がないのだし」と前置きし、一瞬モモの顔を指さしてから、同じ指自分の顎を撫でて、しばらく思案顔を浮かべた。
「魔女には国籍がないもの。生存確認は、噂に頼るしかないのよ」
 再び自分の膝へ首を垂れて、サーシャは言い含めるように囁いた。
 魔女は研究者気質が多い。だからあまり広く他者と交流をしないものだ。流派の近い関係者と細く長い付き合いを持ち、そこで情報を交換する。
 サーシャは「出来の悪い末弟子」であったので、人間になると決めた今も、心配する師匠や姉弟子と接点があるが、今回の事件が彼らから遠い繋がりの魔女に起こったことである場合、話題に上がるのはいつの日になるか。師匠が興味を持たなければ、なにもわからないまま終わる話なのである。
 それでは、とモモには気になることがひとつあった。
 先ほど、多くの目撃者があった。人間の社会なら、国籍不明の死体が大量に見つかったら大事件になってしまう。
「あれは、白鳥の死体から人型に戻る、ということはないのかな。君は一瞬で、白鳥が実は魔女だったと看破していたけれど」
 思考は別のところにあったらしい、サーシャはぼんやりと「ええ?」と相槌を打ってから、モモの疑問に納得がいったらしく軽く頷いた。
「元に戻るかどうかは、術次第ね。よく見てないからわからないけど」
 例えば、幻想のまじないであったのなら、他者に白鳥の姿に見えているだけで、本体はそのままの形をしている。だから時間が経って魔力が霧散すれば、魔女の姿として認識される。変化ならば違うが、分子から変換しているのか、人型をそれっぽく変形させているだけなのか、様々な術式が考えられる。
 「あれらが魔女であるってのはね。習ったことがあるなら、誰でもわかるわ」と断言する。しかしその話題は展開する気がないので、サーシャは口を噤んでしまった。
「それにね、殺人であるかもわからないじゃない?」
 魔女の流派によっては、秘密主義が高じて結社化した団体もある。そうした連中は、教義のためなら集団で自殺するのを躊躇わないのだ。
 訥々と説明を続けるサーシャの横顔にぞっとするものを感じて、モモは言葉を紡ぐことができない。
 やがて電車は大きな乗り換え駅に到着する。
 大勢の人々が車内に流れ込んで、自然と二人は口を閉じた。

 再びの変事に、気が付いたのはどちらが先だっただろう。
 居心地の悪い沈黙と、それを強調するかのような陽気な車内の雰囲気に、二人とも乗客を観察して思い思いに過ごしていたのだが、ふと窓の外を見ると、ちらちらと視界をすり抜ける何かがある。
 いつの間にかまた、電車は地上へ出ていた。
 夜になって気温が下がり、湿気を吸った雪はかなり大粒に育って、しきりに落ちてくる。けれどもその色は、青みが勝った緑なのであった。
「……そんな」
 サーシャは思わず立ち上がり、ちょうど電車は停車してドアを開いたので、そのままホームへ飛び出した。モモはどうするべきか一寸躊躇った。けれど、そもそも放っておくという選択肢ははなからない。扉が閉まる、ぎりぎりですり抜ける。
 駅名を見ると、家から二駅手前である。
 出来る限り急いではみたけれど、行動が遅かったモモはサーシャに追いつくことができず、プラットフォームからの階段を駆け上がった時、すでに魔女の元弟子の姿はどこにも見られなかった。
 無人の駅で束の間、立ち尽くす。
 モモはロンドンの事情に詳しくない。出身は極東であるから、地球の反対側なのだ。実を言うと、英語もよくわからない。現在は幽霊であるし、どうも三十年ほど前に死んでしまっていて、目覚めたのは最近のことだから、ブランクが長いのだ。
 けれど、なんとなく記憶の隅で、この辺りについて会話をしたことがあるような気がする。ちらほらと閉店しはじめている通りの小売店に掲げられた看板文字から、サーシャの師匠がいうアラブ移民の多い所、「使い捨ての精霊を手に入れるならお勧め」の地区だと見当を付けた。
 そういうところは、老若男女問わず一人歩きは危険なのではないだろうか、とモモは蒼白になる。
 慌てふためいて一番近い出口を飛び出る。幸いなことに、サーシャが駅前のコンビニから出てきたのと同時だった。
 ジャムの瓶を両腕に抱えている。モモは状況について行けず、単純に発見を喜んでよいのか判断に困った。同居人には目もくれず、サーシャは歩道の真ん中にラズベリージャムをぶちまけ始める。
 雪はよく見ると、白い細かな雪に、緑色のボタン雪が混ざっているようだ。
 オレンジ色の街路灯の下、それは黒っぽく見えた。地面の踏み荒らされた雪交じりの泥に落ちると、緑の雪はわからなくなってしまう。差し出した手の上では、消えて水滴も残さない。
 現実逃避とわかっていたが、モモはそんなふうに、ただ観察するくらいしか、できることがなかった。
 通り過ぎた酔っ払いは、路上を汚す少女には罵倒を飛ばしているが、雪の色には気が付いていない。それは明らかに「魔女関係の」ものである。けれど、そこまで危険なものには見えなかった。少なくとも普段は自重している錬成術を、サーシャが人目のある街角で、猶予なく展開するほどの事態だとは、どうしても思えない。
 モモはサーシャがこんな風に魔法を使うのを、初めて見る。
 周囲からの評価は不可に近いはずの彼女の魔術は、空気から純水を作り出して瓶を洗い、それを一瞬で乾燥させるというものだ。きっとお作法通りなのだろう、術の発生に無駄がなかった。
 見惚れる幽霊の視線の意味に気が付いて、元見習いは機嫌を悪くする。
「なによ。言っておきますけれどね、お師さまとお姉さま方が凄すぎるの。あのひと達に比べたら、普通の魔女は皆、落第点なんですからね」
 サーシャは口の中でぶつぶつと、「十三人の魔女」だの「厄災の世代」だの零していたが、独り言ちているだけで、モモに聞かせる愚痴ではないらしい。
 どうやら、サーシャが落ちこぼれなのではなく、それを審査する師匠のレベルが違うようだ。けれど”元弟子”という立場からか、自己評価に異論を唱えたことがなかったので、実際を知らないモモは、勘違いをしていたのである。
 この一風変わった少女は、他人からどんな品定めを受けようと、気にしない。一般を知らず、非常に狭い世界を生きてきた。モモはそこにどんな意味があるのか、ちょっとわからなくなる。
 当然の帰結だが、サーシャはモモが現在どんなことを考えていたとしても、心底どうでもいい。綺麗になったガラス瓶を相手に投げて渡すと、
「落ちてくる緑の雪だけ取って頂戴。絶対に触らないで」
 と限りなく命令形に近い響きの注文を付けた。残りの瓶はコートのポケットへ入れ(そんな容量はないはずの内懐に、七つものジャム瓶が収まった)、自分もひとつ捧げ持って、雪を捕まえようとふらふら動く。
 商店街はすっかり成りを潜めている。
 周囲に裕福な車庫付きの家が多いのか、反対に車上荒らしが多くて路上駐車などできないのか、通りからは判断はつかないが、とにかく停まっている車もなく、車道は時々キャブと二階建ての赤バスが通り過ぎるくらいだ。ひょっとしたら建物の上階から覗いている目はあるのかもしれないが、傍目には無人の町だった。
 幽霊ではあるが、現在ではもうほとんど普通の人間と変わらないモモなのである。
 ほとんどの場合で姿は他者から見えているので、妙な行いをして注目を集めるのは恥ずかしい。かといって、他人のふりをするには遅すぎる。
 同伴者は右往左往、時々電柱にぶつかりながら、真剣に夜空を仰いでいる。
 多少の逡巡の末、仕方なくモモは言われた通りに、いくつかの雪を捕まえた。
 避けられなかった普通の雪が水になって底に溜まっている他、緑のものは結晶の形を保ってガラス瓶に収まっている。綿状の結晶はよく見ると、三次元だ。そして、時々形を変えて瓶の中を移動する。
「動いてる」
 思わず手の中の蓋に力を込めて、モモが言う。
「そりゃあ、動くこともあるでしょうよ」
 まあ、これくらいあれば良いかしら、とサーシャは購入した瓶にそれぞれ、いくつかの緑雪を閉じ込めた。ポケットに仕舞い、大げさに額の汗を拭ってみせる。
 あとは何事もなかったかのように、自宅へ向かって歩き始めた。
 昼間は移民が暮らすという、誰もいない夜の通りは、すでにまき散らされたジャムを雪で覆い隠し、冷たい顔で澄ましこんでいる。降り続く緑の氷雨さえ、てんで無視を決め込んで。 
 モモは何故か立ち去りがたい気持ちを抱いて、ちょっと後ろを振り返った。
「これもなにか、珍しい現象なの?」
 やるべき仕事をひと段落したかのように振舞ったサーシャだが、どことなく焦燥の色が濃く、
「これは死体のようなものよ」
 と振り向きもせず答えた。
「強力な魔女が死ぬとね、こういうことが起きるの。放出される魔力が多いから。魔素として分解しきれない分が、こんなふうに純度の高い結晶になるんだわ」
 わたしも初めて見た、と先を急ぐサーシャは、よく見るとこめかみに新しいいっぱいの冷や汗をかいている。

「ファミリア、ファミリア?」
 鍵を開けるのももどかしく、部屋に戻ったサーシャはブーツだけ脱ぐと居間に駆けていく。電気も点けず、部屋を順繰りに覗いて回る少女の後ろ姿を見ながら、モモはとりあえず施錠をした。
 モモには事情がわかっていない。
 まず大量の魔女が死に、そしてまた、高名な魔女の誰かが亡くなったということは理解している。しかし、そう言ってしまってはなんだが、魔女から還俗したサーシャには、もう関係のない他人事ではないのか。
 ファミリアというのは彼女の元師匠の、使い魔のようなものと聞いている。
 全身これ漆黒で姿形がはっきりしないが、スフィンクスみたいなものではないかと、モモは勝手に想像していた。近からずも遠からぬ自信はある。
 実際には使役するだけの関係ではなく、魔女とはほぼ同格の、友人関係であるらしい。先ほど知ったばかりの情報では、師匠はかなり有能であるようなので、その知り合いの精霊も同格以上の存在と思われた。
 元弟子の保護者を自任し、用がなくても様子を見にくるほど過保護な連中、しかも上流精霊は影を渡ってどこからでも瞬時に移動することができるというのに、今この時ばかりは、サーシャの呼びかけに応えない。
 サーシャが何か単語を叫んだが、返答はなかった。
 子音だけで文章を作ったような、不思議な発音である。まじないなのか、ファミリアの真名なのかはわからないが、後ろ姿だけでも狼狽え方が尋常ではない同居人の様子から、それを口にして何も起こらないのはおかしいということは、モモにもすぐ見当がついた。
「何か問題ごと?」
 大人が幼児に行うように防寒具を外してやりながら、モモはサーシャにそう尋ねた。
 腕を引き抜いた途端、コートがズシリと重くなり、ポケットからいくつか空のジャム瓶が転がり落ちた。モモはそれらを丁寧に拾って集め、食卓のイスに積む。その背に、濡れたコートを広げてかけると、また所在がなくなった。
 なぜなのかはわからないけれど、サーシャは自分の考えを、幽霊には教えたくないらしい。ええ、とかいいえ、とか、口の中でもごもごと繰り返して、元魔女見習いは困った顔をした。
 やがて焦ってもどうしようもないと悟ったサーシャは、深呼吸を一つして、無理やりに冷静を装った。
「……お師さまに連絡しましょう。勝手をしては、怒られるかもしれない」
 ”勝手”が連絡のことなのか、それとは別にしようとしていることなのかは、わからない。
 サーシャは趣味用の部屋へ入り、居間からは見えない位置にあるクローゼットの中で、何やらごそごそ漁っている。
 そこは一見、手芸材料がしまってあるだけだが、実はまじないの薬なども隠してあるのだ。
 サーシャは時々、怪しげなまじないをかけた手作り品を売って小銭を稼いでいる。それは例えば人毛を編み込んだセーターで、モモは見てハラハラするが、同時に眉唾物だと一笑に付してしまいそうになるものばかりだ。
 それ以外、普段は滅多にーーそれらしいものは一切ーー魔術を使わない。
 モモは今までそれを、師匠が言うように「落ちこぼれ」であるから使えないのだと思っていた。真実はしかし、そうではないらしい。
 妙に真面目なところがある少女は、人間になると決めたからには、魔術を封印しなければならないと一途に思い込んでいるのだ。使って良い悪いの線引きはサーシャの中にある。ヒトはむやみに、魔女と混在してはいけない。そしてそれは、情報公開にしても同様であるらしかった。
 今晩は戒めを破っても構わないほど、彼女にとっては緊急の事態なのだ。
 彼女に説明を求めても無駄だと判断したモモは、できることから、と外出着を片づけた。
 キッチンへ行くついで、ちょっと迷ったけれど、その手前にある衣類部屋の電気をつける。先ほどからサーシャは作業を始めているのだが、明かりはついていなかった。夜目が利くので、夜間に点灯を忘れることがあるのだ。
 暗闇は幽霊の得意分野ではあるけれど、同居人が人間のふりをしたいのなら、そうするべきなのだろう。サーシャは相変わらず、必要以上の沈黙を守っている。
 悪意があって無視しているわけではないようなので、モモも無言で立ち去る。何をするのか見学したい気持ちはあるが、それによって邪魔になることだけは避けたかった。
 小さなキッチンの入り口で、一瞬立ちはだかる。
 電気ケトルでまず湯を沸かす。冷蔵庫の中を物色し、ソーセージと残り野菜でスープを作ることに決めた。
 サーシャは食べるものに頓着しない。
 栄養面ではいざとなったら、薬で健康を保てば良いと思っている(サプリとポーションの区別がつかないらしいのだ)。
 けれど、食事自体は嫌いではない。生きているから空腹を感じるし、そうでない場合でも菓子にはそれなりに執着する。今は心にゆとりがないが、ひと段落付けば寒さを思い出すかもしれない。温かいものが欲しくなるはずだ。
 モモもさほど料理の腕に覚えがあるわけではないけれど、サーシャは「美食の国」の幽霊の手料理をいつも綺麗に平らげてくれるので、安心して雑に野菜を刻んだ。
 どの世界線であってもこの国は「食事がまずい」ことに定評があるらしい。
 どんな地区でも、ひとつは名高いレストランがある。ミシュランに評価される店もかなりある。つまり、市民の舌に問題があるわけではないのだ。
 結局のところ、産業改革時代からの悪癖なのだろう。日常的には安く早く食事を提供する必要があって、かつ様々な文化や年齢に無難な味付けがされたものなど「美味しくはない」のだ。
 市販品やファーストフードに頼らず、時間を惜しまず下ごしらえをきっちりすれば良いのである。少なくとも、モモはそう確信している。できる限り専門店で、新鮮な商品を購入するのも重要だ。
「あちっ」
 ニンジンとセロリを刻み、たっぷりの玉ねぎを炒め、熱湯を注ぐ。
 大量の湯気が上がり、モモは急いで窓を開けた。換気扇が弱いので、料理中はいつもそうするのだ。室内の湿度が上がると、そこかしこの天井にカビが生える恐れがある。
 弱火にして蓋をする。しばらく煮込む間、お茶でも淹れて持って行ってやるか、と思った時である。サーシャが小さく悲鳴を上げた。
 手芸部屋を覗き込むと、元魔女見習いは作業台にしている、部屋の真ん中に置かれた机の上に糸や羊毛を散らかして、それを前に立ちすくんでいた。うっかり熱いものに触れてしまった時のように、片手で手を擦っている。
 式神を作って、飛ばそうとしていたらしい。
 卓上に綿の詰められた布の塊が、翼をばたつかせてもがいている。
 羽は複数枚の布が重ねてあり、動くと端が解れて糸くずが舞い散った。いかにもサーシャ好みの、派手な柄の端切れの寄せ集めなので、ごちゃごちゃして一環性がない。
 魔女であるから、連絡をとるのに電話を使うわけではないのはわかりきっていた。それにしてもずいぶん手間の掛かる連絡方法だな、とモモは興味津々、式神に近づいてみたが、どうも様子がおかしい。
 身体の半分が凍っている。
 目も止まらぬ物凄い速さで透明な氷が、布製の鳥のようなものを覆い隠していくのだ。
 サーシャが空中に指を這わせている仕草から、モモは糸が絡まっている連想をした。
 この少女は糸を使ったまじないだけは皆から太鼓判を押されるほどの腕前で、物質的な糸に限らず、運命とか縁とか呼ばれる、見えない「糸」も操ることができる。恐らくはただの物を生き物のように動かす魔力、それをどこへ飛ばすかという方向性、彼女の意思、伝言、ひょっとしたら更に何か、全く関係のないはずの強力なものが、サーシャの前でこんがらがっているらしかった。
「やだやだ、どうしちゃったの」
 出来損ないと揶揄されるのは、こういうところから来ているのだろう。サーシャは逆境に弱い。切迫しているのに思うように飛んでいかない式神を、おろおろと見下ろしている。
 ぬいぐるみの仮生物はもう、ほとんど氷漬けになって動けない。
 その時はっとしてモモは、弾かれたように顔を上げた。
「早く、凍らせてるところだけでもなんとかして」
 口調に驚いて、サーシャはとっさに手を見えない糸から離してしまう。
「何? なんで?」
 ひょっとして、いや、ただの邪推かもしれないんだけど。モモは瞬時に考えを言葉にまとめることができず、苛々を鳥の上で手を振り回す。何も当たる感触はない。虚空が、凍り付き始めている。
「ひょっとして、糸で繋がっている君も、凍ってしまうのでは?」
「えっ」
 机上の布切れが、ばきっと音を立てた。
 ひゅっと息を飲んだのは、二人のうち、どちらだったのか。
「なんとかして」
「だって、見えもしないのに」
 引きちぎるように空を掻くサーシャは、苛々と何か早口で唱えていたが、掌に唾をひと吹きすると、思いっきりモモの額をそれで打った。幽霊は突然の事に目を瞑り、それから軽い怒りを感じてサーシャを睨んだ。否、睨もうとした。
 ところが二人の間、机上に現れた恐ろしく入り組んだ糸が、身をよじらせるように凍り付いて巨大な球を作っていたので、少女の顔が見えなかった。
 クモの巣のように糸は部屋中のものと繋がって、当然サーシャは全身を絡めとられ、モモの手に続く線も、まるで光の速さで氷結していく。作業台の向こうで、少女の三つ編みの先が割れて砕け落ちた。
「何とかして、とって、はやく」
 サーシャが叫ぶ。


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。