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34. ばらの庭

 ロンドンには、設立から数百年経ったような庭園がざらにある。
 邸宅の跡、屋敷部分はやむにやまれぬ事情で失われてしまったが、庭の一部だけ今でも残って、公園となったものなどもそれに含む。現在、多くの場所が由来を知られることもなく、ただ周辺の住民に緑地として利用されるだけに留まっているが、元の持ち主が特に力を入れて世話をしていたのであろうそうした花壇には、人を惹きつける特別な魅力があるものだ。
 メリルボーンの住宅地の中には、柵に囲まれた緑地帯がある。
 文字通り帯のように細長く、地図で見ただけなら、道路の緩衝地帯とでも思うだろう。それが実際にその前に立ってみると、ちょっとした規模の公園かと勘違いしそうになる。青々とした緑の壁で、反対側が見えないのだ。
 そこには、根付いて少なくとも三百年は経ったバラの木がある。
 だらしなくただ図体ばかり大きい樹木ではない。細身なのだが、幹と枝のメリハリが素晴らしい。堂々とした威風は、この庭園の主と称して誰にも疑う余地を与えない。
 事実、園内の植物は全て、彼女が管理しているということだ。バラの好まない雑草、昆虫はこの庭園では見られない。ただハチが多いのは、どうしようもないという話である。
 バラの意思が最も現れているのが、公園全体の色彩だ。
 女王陛下はバラとしては薄い緑色をしているので、周囲はそれをたてて深みのある色を身に纏う。花弁の色はその時々のご機嫌で変わるようだが、赤はお好みではないようだ。ほとんど純白のフリル裾を彩る薄い桃色や橙、クリームの明るさが、そして彼女には良く似合う。
 しっとりと重みのある木陰の中で、陛下の美しい肢体がしらじらと浮き上がるのである。
 もしも諸君がこの麗しいバラの御姿を拝する名誉を得たいのであれば、地下鉄駅に最も近い門から入るのが良いだろう。それから順路通りに奥へ進むのが、礼儀にかなっている。
 バラの前に、柵が二つあるはずだ。
 外側より中には、入ってはならない。そのこの世で最も美しい光景の一つを目に焼き付けたら、早々にその場を去るのが正しいのである。
 バラは時折、ヒトの願いを叶える。
 それは気まぐれな下賜であるので、あまり知られてはいない事実だ。それに、存知で歎願するものの望みには、耳を傾けないという話である。
 花の女王の美しさに、つい苦しい心の内を晒してしまう。その無垢な純粋さを向けられることを、陛下は無常の喜びとされているらしい。
 ただ、長く生きているといっても花である。
 世間知らずで、独りよがりなところがある。そしてなまじ力があるだけに、その性質はトラブルを招く。
 恋をしている少女があって、本心をバラだけに打ち明けた。
 意中の相手は原因不明の病となり、少女の看病のかいもなくやせ細って亡くなった。長く看護していた少女も心身ともに疲れ果て、消え入るように儚くなったということだ。そして二人は現在、同じ墓に眠っている。
 あらすじだけならば、なんとか美談と言えなくもない、悲恋物語だ。
 現実には、この少女は幼少に大病にかかって、人の目を背けさせる容貌をしていた。そして相手は美男だが、それを鼻にかけて、素行が良いとは言えなかった。女に人格を認めないろくでなしだ。初めから、望みの薄い恋だったのだ。
 そんな男が奇病のせいで自慢の美貌を損ない、周囲が離れて生活を荒れさせる。ただ一人残り、付き添う少女には暴力をふるう。症状が進行すると虐待を行う体力もなくなったが、痴呆になって、まるで生きているだけの肉隗であったそうだ。
 愛する人を失った後、少女は食べることも眠ることもしなくなり、身体は土くれとなって崩れてしまった。やがてそこから、芽が吹く。哀れに思った遺族がそれを、少女の代わりにと男の墓に供えてやった。
 少女の花は深く根付いて蔓を伸ばし、墓石の名前は今はもう読めないほどに覆われているそうである。
 それがバラにとっての、理想的な恋の成就だったのであろう。
 最近では庭園を訪れるものも、めっきり少なくなった。そういう時代なのだからしょうがない。
 バラは相変わらず、美しく咲き誇っているらしい。
 ただ時間を持て余しているらしく、時々暇つぶしにユリの花を付けているという。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。