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97. 虹のたもと

 虹の袂には、宝物が埋まっているのである。
 そういうおとぎ話があるのだ。虹は宝物が埋まっている地図であるとか、妖精の国への入り口から漏れた光であるとか。
 もちろんもういい歳の大人なので、雨後の大気中の水分がプリズムとなって光のスペクトルが云々、と詳しい解説はさっぱりだとしても、なんとなく科学的に説明がつくことだということはわかっている。
 けれどひとりの親として、子にそうした幻想を本当のこととして語ることはある。
 賛否両論あるだろうけれど、短い子ども時代のさらに瞬きするほどの間しか魔法とファンタジーを心から信じられないことを知っている身としては、せっかくだからそれを楽しませてやりたい。
 ところがわたしの娘というのが、ユニコーンや妖精とのお茶会を想像して、おもちゃのドレスを着るような娘ではなかった。
 今日、昼休みにとっとと食事を終わらせて(残念なことに、この子は物凄く早食いなのだ)、校庭に出たら一番乗りだったのだそうだ。
 直前まで、雨が降っていた。だから誰もいなかった広い敷地の中に、虹のふもとがあったのを、彼女以外の誰も目撃しなかった。
 体育に使うので柔らかなチップ舗装に覆われた校庭だが、虹はちょうどプラタナスの根元で終わっていた。大きな樹の周りは根がコンクリートを割り上げていたので、拾った枝で掘り返すのは難しいことではなかったそうだ。
 もう、どこから駄目出しすれば良いのか、途方にくれてただその報告を聞いた。
 先週、学校トイレのタイル目地を、枝で削り落として怒られたばかりなのに、性懲りもなくまた何かほじくりかえしているのだ、この子は。
 それで二十センチほど雨に濡れた土を掘り返し、見つけたのがこれだ、という。
 差し出された手の中には、何もない。掌の向こうにある、体育用のショートパンツは泥まみれであった。
「なるほど、これはこれは」
 とりあえず、話に乗ってみた。
 大人を騙そうという悪意があるわけではなく、想像力を働かせすぎてないものをあるもののように振舞うのは、子どもにはよくあることだ。幸い、その対処には慣れている。
 良し悪しに偏った感想にならないように気を付ける。とにかく感心した様子さえ見せておけば、あとは勝手に説明してくれるはずだから、そこからモノの予想を立てるのだ。いわゆるホットリーディング、詐欺のやり口である。
 しかし娘はちょっと眉を顰めて、「見えないんでしょう」と決めつけた。
 実はこれは、大人には見えないものらしい、というのだ。
 虹の下の宝物を掘り出した時はもう、周りにちらほらと見学人がいた。何人かは見えるようだったが、他の子たちは見えなかった。休み時間に年少生徒の面倒を見るヘルパーたちは「今のママみたいにしていた」ので、見えていないのが丸わかりだったそうだ。
「そうなの」
 わたしは適当に相槌を打って、この話の正解を導き出そうとした。
 というのも、娘がそれを両手でもつ仕草が、いつもよりも上手いのだ。通常物を持っているふりをすると、左右の手の高さに差ができるなどする。今日はそれがなく、しかも少し重たそうな演技までしている。ただ演劇クラブで習得したものであるならばいいのだが、万が一、認知障害かなにかであるのならば困る。
 しばらくの間、わたしはキッチンに、娘は廊下に、敷居を挟んで立ち尽くした。わたしは娘の両手の上と顔色を伺って目をきょろきょろさせ、娘はそんな母親をじっと瞬きもせず見ている。
「これ、とっておいてもいいでしょう?」
 やがて、娘が言った。
 わたしは少しだけ考えたが、見えていないものを危ないだのと難癖をつけ捨てさせるのは違う気がして、肩をすくめてみせた。
 娘はそれを肯定と判断し、大事そうにそれを抱えて二階の自室へ行ってしまった。学校のカバンは、玄関に放り出したまま。
 女子という括りに囚われず、誰と比較しても個性的な娘のことだから、「虹の下にあるもの」を、宝石箱や金貨の詰まった一般的な宝物で、想像したのではないのだろう。ドラゴンの爪や、コッカトリスの舌か何かを『それ』に設定したために、素敵でかわいいものを考えた子たちと意見が合わず、その状況を見えない子がいた、と理解したのだと思う。
 その娘は家中を物色して回り、最終的にクリスマス休暇用の大きなクッキー缶を持ち出し、虹の宝物を仕舞っておくことにしたようだ。
 お菓子はイブにおばあちゃんちへのお土産にするつもりだったこと、中身を全部お皿の上に出していったことで悶着はしたけれど、叱られてもなんだかんだ口を回らせてちゃっかり目的の物を手に入れた娘を見ると、そうしたファンタジーもそろそろ卒業する年齢かもしれないと、感傷的な気分になる。
 娘は見えない宝物を中に、缶を抱えてご満悦だった。
 そうして、わたしが見えないことをいいことに、宝物を拾って集めてくるようになった。
 これまで毎日ポケットに入れていた枝や小石や誰かの落としたボタンやカタツムリなど、とんと見かけなくなった。おかげで洗濯する前の検分は楽になったが、あんなにも愛していたものたちへ唐突に失った興味が、急成長なのか異常なのか、わからなくて少し心配だった。
 毎日見えないとわかっていて、それを手のひらに乗せ帰宅一番、台所にいるわたしにうやうやしく「見せびらかした」あと、娘はそれらを大切にクッキー缶に仕舞っておく。
 一応掃除するたびに、それを子ども部屋の机下から引っ張りだして覗いてみるのだが、中にはクッキーの屑ひとつ、入っていない。いつ見ても空なのである。
 自分は幼少時代であっても、ここまで空想世界に浸った記憶がないので、忌憚ない意見を云えば理解の範疇を超えている。けれど感受性の高い子ならばこんなもの、と夫に言われればそういうものか、と誤魔化されそうにもなって、納得できないまでも、真向から否定するような親にはなりたくないと娘の奇行を見逃しがちになる。
 結局これは、子に関係する大人であればよくある類の面倒ごとなのだろう。
 などと考えながらバナナブレッドを焼いていたら、ちょうど娘が返ってきた。
 手に、潰れたカエルを持っている。
 ぷっくりした腹を上に、真ん中あたりがひしゃげていて、口から舌が出ていた。長いそれは先端が紫色をしていて、ぶつぶつと泡立った茶色の肌に大量にくっついた芝と、鮮やかな対照を成している。
 濡れている。妙に色鮮やかである。わたしは思わず、窓の外へ目を向けた。天候は晴れ、空にはうす雲さえ見えない。
「ママ、見て」
 娘がにっこりと微笑んで、潰れた死体を手で包んだ。
 わたしは悲鳴を上げたと思う。
 すぐさま娘を台所から追い立て、玄関からまた外へ出すと、通りに向かってそれを捨てさせた。キッチンのゴミ箱に捨てさせたくなく、開いたばかりの庭のパンジー上に投げるのもあんまりだと思って、そうさせた。
 もちろん公道にものを捨てるのはいけないことだが、この時のわたしは上手く考えることができていなくて、とにかくそれを家の外へ出すこと、娘の手を洗わせることしか頭になかった。
 洗面所で命じられた二回目の手洗いをする娘は、始終腑に落ちない顔をしている。


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。