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12. 仮喪主

 わたしが大学時代に住んでいた所では、孤独死が多かった。
 それ自体は異常なことでもなんでもなく、早くから単身者や身寄りのない老人へのケアが行き届いていた区だったので、人口比率的に考えてもしょうがないことだと思う。幸いなことに、配慮が行き届いているから発見が遅れた、ということは案外少なく、そういう怖い話はあまり聞いたことがなかった。
 なぜなのかはわからないけれど、そういった弔ってくれる身内がない人の葬式を行うのに、仮の喪主に赤の他人が選ばれて、務めるという制度があった。
 どうも教会が中心となって行っていたことであったようだけれど、あいにくわたしはカトリックではないので、選ばれる立場になかったので詳細は知らない。地域の礼拝堂に入ったこともないのだ。
 別の地区に住んでいた知人からはそんなこと聞いたこともないと言われたので、この教会だけのシステムという可能性もある。
 仮喪主に選ばれたことがあるフランス留学生が言うには、就任は強制ではないそうだが、断る人はほとんどないだろうということだった。
 なんせ今後もミサに通うことを考えると、無駄な摩擦は避けたいと思うのが人情だ。それに、喪主として葬列に参加する以外、何もしなくて良いという。客のひとりひとりに挨拶したり、台に登ってスピーチをさせられることもない(そもそも知らない人だから、故人の思い出など語りようがないが)。本当に、ただ名前だけの役職なのだ。
 無縁仏であるからミサに人が入らないので、賑やかしの役割があるらしかった。
 そこまでして、無理やり追悼する意味ははっきりしない。無縁仏なら自治体が簡易に葬式・埋葬するはずだが、それにしては大掛かりなのだ。
 この制度を定めた神父さまが慈悲深いひとだっただけかもしれないし、ひょっとしたら宗派内での何らかのアピールなのかもしれない。どんな事情であれ、多少というには大きな金額が、そうした葬式でも動くのは確かだった。
 なぜそう断言できるかというと、わたしもそのフランス人に誘われて、彼女が仮喪主となった葬式を見に行ったからだ。
 友人は引き受けてはみたものの留学生なので、とりあえず学部の知り合いに声をかけることにした。一応、許可を取るつもりで関係者に相談したところ、では参加者には教会からビールを振る舞うという話になって、若者には良い呼び水となり結構な数が集まった。そして本当に、全員が酔いつぶれるほどのアルコールを出してくれたのだ。
 ミサの後、教会に併設するカフェで行われた故人を偲ぶ会は、追悼というには賑やか過ぎて、わたしには不思議だった。それを友人にこっそり尋ねたら、先述の内容を教えてくれたというわけだ。
 参加者の何人かはこうした葬式の「おなじみ」さんで、おそらく泥酔するまで飲むだろうが構わず飲ませてあげてくれ、と言われたそうだ。浮浪者であるらしい。教会主催の炊き出しで声をかけると、別の地区からでも来てくれる重宝する人員だという。
 ここまででも首をひねる内容だと思うが、それ以外では、式の最中にも違和感があった。
 十字架が飾られる主祭壇に花が飾られ、その脇に棺桶が安置されていた。
 それ自体はオーソドックスだ。蓋が閉まっていたのは珍しいと思ったが、わたしも葬式に出慣れていたわけではないし、病気でやつれた顔を見せたくない等事情はいくらでも考えられる。孤独死の老人ということだから、紙が貼られて封されているのも、不自然というほどではなかった。
 問題は、黒い蓋がされた棺の後方に、ベールで顔を隠した婦人が座っていたことだ。
 モスリンの古臭いドレスが目を惹かなければ、あまりに静かなので気が付かなかった。椅子ではなく、何かの箱の上に乗っていた。
 その時は縁者かと気にしなかったけれど、後で思い出せば無縁仏の葬列だったのだ。特別な誰かがいるのはおかしい。
 それに、彼女の傍らに修道士が立っていたのも、今思うとなんだか不自然に感じる。
 ピクリとも動かなかった。ありうるだろうか? 式が始まる前から、姿勢を一度も崩さずにいることなんて。
 それで、つい考えてしまう。
 もちろん馬鹿げたことを言ってると理解はしているけれど、どうしても頭から離れない妄想だ。数年経った現在でも、時々ふっと思い出してしまう。
 あの女性は見えないベールの下で、瞬きさえしていなかったのではないか。
 ひょっとしたらあのひとの方が、今回埋葬される人だったのではないだろうか、と。
 となると必然的に、棺桶には何が入ってたのだ、という話になるわけだが。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。