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13. タイバーン録

 ロンドンで最も有名な公園の一つ、ハイドパークの北東角には、マーブルアーチという建造物がある。
 名高いオックスフォードストリートに面し、元は宮殿を飾るために造られた大理石の門、というと大仰に聞こえるが、実際には色味も大人しく、謙虚ささえ感じられる。派手ではないが、地元の民にも愛されるランドマークだ。
 そんな観光名所の、前身は処刑場であった。
 かつての地名をタイバーンという。
 罪人の血を受けること、有に五百年を超える。
 処刑には犯罪抑制のため、その恐ろしさをその目で見て後世へ伝える見物人が必要であった。
 十八世紀のイギリスと言えば、その要素が特にーー極度にーー展開し、大きな娯楽へと発達した時代である。
 ニューゲート監獄からタイバーンへの引き回しでは目抜き通りが人で埋まり身動きが取れないほどだったそうで、ことにそれが何らかの理由で注目される大罪人である場合、集まった客は数万にも及んだという。
 罪人がみっともなく取り乱せば取り乱すだけ、観客を楽しませたわけではない。
 慈悲を与えひと思いに断命を許すか、あるいは罪に応じた耐え難い苦痛を与えるかは、その日の雰囲気によって執行人が決めた。表向きはそういうことになってはいるが、どのタイプのエンターテイメントになるかで経済が大きく左右されるため、その人選と「決定事項」には、コネと金が大いに物を言ったという。
 祭りには露天商がつきものである。
 処刑があると、食べ物や記念品の他に、見物客に腐った卵や汚物を売って回る者があった。
 それを罪人へ投げつけるのである。
 時には、動物の死体も扱った。そんなものを一体誰が買うのか、現代のセンスを持ってすると狂気の沙汰に思えるだろうが、意外なことにこれが一番の人気露天で、先を争ってでも購入しないと買い逸れるほどだったらしい。
 処刑された罪人の肉体や滴り落ちた排泄物に体液が、魔術や護符の材料として人気があったことは、恐らく誰もが知るところであろう。
 タイバーンにもそれに似た独特の習慣というか、まじないのようなものがあった。
 何を罪人に投げ、それがどこに当たったかで、将来を占ったり幸運を引き寄せたりしたのである。
 人によって施術が異なるので、いくつかの流派や種類があったようだが、はっきりとしたことはわからない。なにしろ秘術だから大っぴらには語られず、後世に残っている事柄はごく僅かなのである。
 はっきりしているのは、それが上層階級から始まったものであるということだ。
 もちろん貴い人々は汚物を直接手にしたりはしないから、使用人にやらせたのが下層階級へ漏れて、社会全体で行われるようになったらしい。
 汚物売りで抜け目のないものは、すでに「準備が終わった」とする死体を用意して、値段を割高に設定して商売をした。
 だから呪いを行った人数の割に、どのような内容が含まれていたのかを知る市民は少なく、そしてだからこそ、結果が伴わないことが多かった。要は詐欺である。それでも露天商の業績は右肩上がりで、最盛期にはハイストリートに大店を構えるまでになった山師もいた。
 様々な目的と作法があることは先述したが、それは断罪される者がどのような罪を犯し、処刑日の天文的特徴がどうなのかで、ある程度定まった。だが各自が望む結果が異なるため、同じ方法が取られることは、非常に稀であったと言える。
 その点で、十八世紀に行われたメアリーアン・オコンネルの処刑は唯一無二であった。
 この事例の公式な報告書は破棄され、現在では残っていない。処刑当時の様子から、後世へ記録を残すべきではないと判断されたためだ。それでも当日の異様な様子は事情を知らない人々の印象にも残り、何人かの識者の手記の中に今も見ることができる。それらをかいつまむことで、大まかな全体像はつかめるはずだ。
 一般的には、メアリーアンの生まれが非常に複雑であったこと、そして被害者との間に血の繋がりを超える奇異で綿密な接点があった、ということだけを知っていれば十分だ。
 執行当日、始まりはいつもよりも平静ですらあったそうだが、罪人の首が落とされたのを皮切りに、一斉に見物客が「舞台へ向かって魚か子どもの死体を投げつけた」。
 それは体感で数時間にも及んだと見学に参加した某詩人が記述を残しているが、実際には三十分程度であったとの見解である。ある少女は、狂気を孕んだ熱気に卒倒した。それでいてその混乱の渦中、罵倒の声は一切聞こえなかったそうだ。
 誰もがひとつの呪いを、ほぼ同じ手順で行ったのは、メアリーアンの件を以って他にない。
 魚はニシンが多く、これは当時では高級で、誰にでも手に入る魚種ではなかった。
 死体は幼児までの小さな肉体が、更に部分に分けられ、投げられた。単純に拾い集められた手足から計算して、五十人近い乳幼児が切り刻まれたと思われる。
 その呪いが行われるだろうことは容易に予想がつけられたので、行政からは対策がなされていた。発表はされていないが、被害を流した方向を見るに、悪運の大方はフランスへ流れ着いたと思われる。
 予想よりも、死者はずっと少なかった。
 少なくとも、ロンドン市内では。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。