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35. 注意書きはきちんと目を通しましょう

 水路に死体が浮いているのに、誰も見ないのである。
 キングスクロスと言えば大企業のオフィスが集まるところだから、多忙に次ぐ多忙な業務に、他人にまで気が回らないのは当然なのかもしれない。
 この駅は水辺に隣接しているわけではなく、船着き場より少し南にある。
 水路はカムデンからリージェンツパークを掠め南西へと続いていくようだが、あとは個人所有のナローボート、水上スポーツ用カヌーなどが浮かぶばかりの細さというから、大体水上バスが停留するパディントンまで、として差支えないだろう。こちらも大きめの駅で、線路はバースなど、別の地方へと繋がっている。
 キングスクロスの水路脇には、昔は鉄道の石炭倉庫があった。
 船で外からの荷物を運んできて、内へは鉄道で輸送したのだ。そういえば、経済中心のシティ、銀行の集まるカナリーワーフもテイムズ河のすぐそばにある。惰性もあるかもしれないが、未だに水路にも交通の利便性が残されているようである。
 現在の水路はどちらかというと、通勤や通学に重宝されている。
 車が通れないということは信号がないということで、交通整理に足止めされる時間のロスがない。水際に柵はないので、安全を心配するひともいる。けれど仮に落ちたところで一メートルも水深はないので、普通ならば溺れる心配を抱かなくてもよかった。
 それなのに、水死体が浮いているのはどういうわけだ。
 わたしもキングスクロス周辺に勤めてはいるが、個人営業カフェの店員だから、そういうものに目を止める時間がある。健康のために水路沿いを一時間ほど歩いて通勤するので、余計に発見しやすいのかもしれない。
 現場は水路が曲がりくねって、木ややぶがちらほらする薄暗いところだ。車道が並走しているわけでもないので、人目は少ない。柳など枝の下がる樹木が水に垂れ、流れ着いたごみが溜まっていたりするが、葉に隠れて掃除もされないのである。
 だからといって、それを見つけるのはわたしばかり、ぎょっとして立ち止まったりでもすると、まるでわたしの方がおかしな人間ででもあるかのように、周囲からじろじろ見られるのは納得いかない。
 一時はわたしの精神的な問題かと思ったが、どうも実在はしているらしい。
 たまに言葉も持たない小さな子どもが、それに反応しているのを見かける。それを、親があからさまに無視するのが分かる。そういった親、まだ幼く割り切れない幼児などは、視線こそ向けないものの、振舞いが不自然だ。死体とは逆の方向へつい足を進めがちだったり、顔をわざとらしく背けたりする。
 知り合いの談だが、例えば本屋で万引きを見かけるのと、満員電車で痴漢を見つけるのでは、通報数に違いがあるだろうというのだ。
 本屋で万引きを見かけても、店内にはカメラもある。引き止められることはないので、時間を取られない。だから気軽に犯罪の報告が成される。
 しかし、満員電車ではカメラはあっても死角が多いので、恐らく同行を求められてしまう。犯人に逆恨みされる危険もあるし、そうでなくても誰もが急いでいる時間だ。結果、多くの性犯罪が、見て見ぬふりをされているだろうということだ。
 多分、水路の死体も同じようなものなのだ。
 すでに事切れているのは確実であること、それならば自分ではない誰かが通報してもかまわないだろう、と誰もが避けて通り過ぎる。
 かくいうわたしだって、気になりこそすれ、何かしたことは一度もない。
 最初は放置することへの罪悪感もあったが、悩まされるというほどの葛藤は抱かなかった。改めて思いだせば、気の毒に感じたことさえない。人間は慣れる生き物なのだ。
 ちょっと気分の悪いもの、けれどつい目で追ってしまうもの。大きな声では言えないけれど、ちょっとした楽しみでもあるもの。それが通勤路の水死体だった。
 だが、先日のものは、少年だったのだ。
 全裸である。顔のある面を下にして、水面に出ている背中は赤茶色に変色してハエがたかっていた。数日の陽気で緑色になった水の中を、風に流されて揺蕩っている。
 誓って言うが、わたしに小児性愛趣味はない。
 けれど、この少年の肢体からは目を離すことができなかった。
 まず、乾いた浮草の張り付いた肌の、なめらかさに驚いた。体躯の大きさから幼いと判断したが、それは遠近に騙されたものかもしれない。幼児にしては妙に……存在感があるのである。生前はさぞかし活発であったのだろう、程よい内腿の筋肉が、皮膚の上から見ただけでわかるのだ。
 いったい、生物の肉体が芸術、美の素質を持っているは、誰もが認めるところであろう。
 容姿といった表面に限らず、筋骨の構造、あるいは振舞いに見る動き。少年の死体には、その全てがあった。命を失ってただ自然の力に成すが儘にされている、その哀れさえも優雅だった。
 退廃の美につい、立ち止まってそれに見入った。
 どのくらいそうしていたのか。正面からやってきた老婦人が、わたしの前にやってきて「18番のバス停はどこにありますか」と尋ねた。他の通行人のないーーあるいはあったのかもしれないが、熱中していたので一切気が付かなかったーー路の、曲がり角にいたので、婦人はあたかも、忽然と現れたようにわたしには見えた。
 我に返ったわたしがちょっと困って口をもごもごさせていると、案内してくれ、と元来た道へ、わたしの腕を引っ張った。わたしはその場へ、ちょっと後ろ髪を惹かれる想いがしたが、それもほんの一瞬のことで、なぜ死体なんかに心奪われることがあろうか、自分で自分が気味悪かった。
 水路の幅が広がり、停泊するナローボートが見える所までくると、強引にわたしを連れてきた老婦人は振り返り、ちょっと小鼻にしわを寄せた。
 足元をちらちらする白い影があるので見下ろすと、婦人は犬を散歩中だった。バスを探して、道に迷っているはずがない。それが方便であったことは、火を見るより明らかだった。
「あなた、あんなもの見ていてはいけませんよ」
 と小言ながらも上品に耳に届く口調で教えてくれたのには、あれは死体などではなく、疑似餌であるということだった。
 ああして同情を買い、おびき寄せたものを引きずり込む。学習し、女性や子どもへの擬態が上手いものほど年を経た個体であるので、注意が必要だ。通常は単独だからといって、群れを作らないわけではない。立ち止まるだけで危険なモノであるらしい。
 婦人は人と誤解して助けようと水際に近寄った一瞬の隙に、大の大人が引きずり込まれてしまうのを見たことがあるという。
「あたくしの時代は、学校でも習いましたわよ。今まで、水路と縁遠かった? だからといって、注意勧告があちこちに貼ってあるでしょうに」
 しどろもどろ、言葉が継げない。恥ずかしさに俯いても、下から犬の無垢な瞳を投げつけられて、逃げ場がないのである。白状すると、水路に点在する注意書きを読んだことはない。どうせごみ捨てか痴漢注意であろうと、面倒で文字を読まなかった。厄介ごとには首を突っ込まなければ良い、と楽観視していたのだ。
「だってあなた。避けられる火の粉を叩かずに、どうするのですか」
 呆れて言う婦人に対し、わたしは返事もできない。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。