25. ワールドエンド3
作業部屋の床に転がって、サーシャとモモはじっと動けないでいる。
恐怖で乱れた息は、徐々に整いつつあった。時々、サーシャがすすり泣く声がする。モモはそれを聞いて、なんとか取り乱さないで済んでいるが、身体の震えは止まらなかった。
凍って割れた電球が、目の前に散らばっている。どこか切ったかもしれないが、二人ともまだ痛みを感じる余力がなかった。明かりの消えた部屋で、元魔女見習いと幽霊は、漠然と時が過ぎるのを待っている。
結氷でも、ブレーカーは無事であったようだ。部屋の入り口の向こう、キッチンから蛍光灯の光が漏れ、調理台の鍋が煮たってことこと音を立てている。
「こわかったわ」
やっとのこと、サーシャが絞り出すように呟いた。
つい先ほど、魔術の暴発で氷漬けになるところだったのだ。
長年そう言われ続けたために、サーシャは自分の魔術構成に自信がない。けれど、連絡用使い魔の作成は初歩中の初歩である。失敗する要素はどこにもなかった。凍り付いた理由が、さっぱりわからない。
サーシャは冷たく濡れて重い腕を持ち上げて、パチンと指を鳴らす。
瞬く間に、部屋の中が元の状態に戻った。電球は丸く直って天井へ、凍り付いて濡れていた室内はすっかり乾いている。床に落ちた手芸材料はそのままなのは、術師がそうしたからだ。机上の混沌もそのまま、ただし式神は事切れて動かない。
一つ思い通りに事が運んで、サーシャはやっと泣くのを止めた。
「こう、今にも凍るぞ、凍るぞ、って近づいてくるのに全然絡まりがとれなくて、指に触ったときは死んだと思ったわ」
「同じく」
サーシャほど簡単に気分を切り替えられないモモは、放心したまま相槌を打つ。ちょっと思い出して、唾棄された額に手をやった。
「でも全身に冷気が広がったら、何だこんなもんか、て感じだった」
「同じく」
二人とも、一度は凍ったのである。
氷結の速さに成す術もなく、まずサーシャが冷気に埋まり、モモが伸ばした手が固まった。視界が白く染まったかと思うと、部屋中が冷感で満ちるのがわかった。たった一瞬でもぞっとするほどの無音世界を思い出し、モモは身震いする。
固い氷はしかし薄く、表面を覆うに留まった。すぐに溶けて、もう跡形もない。
服はすっかり乾燥していたけれど、冷えだけはどうしようもなく、モモはのろのろと立ち上がって、煮詰まってしまったスープをカップに注いで戻ってきた。サーシャに手渡す。少女は「ありがとう」とやや舌足らずな礼を一言、あとはまた黙って温かな汁物を啜った。
味付けのないスープは物足らなかったが、内側から腹部が温まると、ふたりとも人心地ついた気分になり、落ち着いて出来事を振り返ることができた。
「敵は、魔女を皆殺しにしたいのだろうか」
モモはカップの底に残った玉ねぎの切れ端を見つめ、言う。
質問ではなく、むしろ独り言がつい出てしまったという体だった。サーシャはそれを聞いてぎょっとしたが、まずは立ち上がって台所の引き出しからスプーンを取り出し、ちゃっかりスープのお代わりをして、魔女社会に詳しくない同居人の誤解をどう晴らすべきか思案する。
「魔女が、魔術で同胞を殺そうとすることは普通はないのよ」
「なんで?」
「意味がないから」
ふたりとも作業部屋で食事をする必要はないのだが、倒れていた場所に戻って、サーシャはカップにスプーンを突っ込んだ。鍋の中の全てのソーセージを攫ってきたような、山盛りの具材を見て、幽霊も席を立つ。案の定、鍋の中には野菜しか残っていなかった。せめてスープに胡椒を振り、食器を手に床へ座り直すと、サーシャはカップ内の最後の一滴を飲み干そうとしているところだった。
モモが食べている間、サーシャは攻撃を受けたと思っていない理由を繰り返す。
魔術は魔術で、対抗できるのだ。そうでなくても魔女であれば、常に災いを弾くまじないを己にかけている。防護が破られればすぐに対処するであろうし、特に一流なら、魔力の流れを敏感に察知して、起こる前にそれを避ける術を知っている。
「だからこれが攻撃だったとしても、ひっかかるのはわたしのような未熟者くらいだわ」
流しで食器を洗って洗いかごに入れ、モモは今日の運河のことを思い出す。「攻撃だったとして」の仮定を、今すぐ破棄するのは気が早いように感じた。
「じゃあ、白鳥は変身の練習をしていた見習いたちだったとか」
テイムズに浮かぶ遺体には外傷がなかった。別の生き物に被害がなかったから、毒殺ではないとは考えていた。鳥の身体であれば服を着ていない。先ほどの薄氷だけでも、十分害に成り得るのではないか。
「あり得なくはないと思うけれどーー」
サーシャは水を口に含み、飲み切れなくてコップ半分の中身は流しに捨てた。少女の不安に連呼したのか、蛍光灯が微かに瞬く。
「いえ。普通は預かり子にだって、守りくらい付けるもの。通常の魔術では死んだりしないし、第一蘇生しないのはおかしいわ」
無差別に広範囲で、そして本気で魔女を殺そうとするのであれば、伝説や神話レベルの術式と魔力が必要だ。それこそ、一足先にヒトが全滅していなければおかしいのである。
「いやだわ」
サーシャは一瞬、べそをかいたような表情を浮かべた。
「もう、だからわたしは、魔術を諦めたのに」
顔を覆ってしゃがみ込む少女へ、幽霊はかける言葉が思いつかない。
手を出し、ひっこめるを数度繰り返した末、モモはサーシャの頭を撫でるともなく、ぽんぽんと軽く叩いた。少女は一瞬、びくりと身体を強張らせる。
台所は温かく、夕飯のスープの匂いが漂っている。元魔女の見習いは、幼子のように愚図り続けた。
静かな夜だ。
ほどなくして泣き止んだサーシャは、ただ目元に赤く不満の色を残す以外すっかりいつも通りの顔で、
「やるしかないのね」
と決意した。
「モモ」
度重なる異常に、何か落ち着かないものを感じるのである。
師匠と連絡が取れないからといって、それを放置することができない。何が起こっているのか、少なくとも今すぐ対処すべきことなのか、知りたいのだと元魔女の見習いは白状した。
まっすぐの瞳で、サーシャはモモに言う。
「手伝ってほしいの」
元より、モモには異を唱える腹はない。
モモはサーシャ憑きの幽霊なのだ。悪霊ではないのだから、守護霊であるつもりでいる。出来る範囲のことなら、なんでもする気はあるのだ。
大仰に頷いたモモはそこで少し照れて、
「とはいっても、やれることは少ないだろうけれどね」
赤面するモモにつられてサーシャは口角を上げた。
「見ているだけでいいの。それを、そのまま伝えてほしいのよ」
二人は連れ立って、作業部屋へ戻る。
先ほどの混乱で床にはまだ布切れが散乱していたが、机の上の物を払って落とし、それらには視線もくれず、サーシャは新しい糸を引き出しから取り出した。モモは次々と放り投げられる素材を受け取ることはしたが、手の中のものが持ち出されて再び空になった後は、編み物が出来上がる様をただ見ていた。
縦に横に、様々な種類の繊維を配置していく。それは織機の並びに似て、けれども放射線状に広げた箇所もあり、粉をかけたり木の枝をねじ込んだりして、板の上に奇妙な文様を作り出した。
今度は消灯したままである。
部屋の真ん中にある机に対し、サーシャは奥から材料を取り出したので、自然と天板の広い場所に位置を占めた。作業の邪魔にならないよう、すぐ左側にモモが控える。「ただ見ていろ」という言葉通りに、しかし一瞬も見逃さないように。
紅状の軟膏で糸にいくつか印をつけた同じ小指の先で、サーシャは左手の甲と鎖骨、右こめかみのすぐ上の髪の生え際に触れた。小さな赤い点は肌に馴染んで消え、代わりに周辺の血管が青く浮かび上がった。
青白い左手で、サーシャはモモの手を所定の位置へ誘う。
「右手はそのアンゴラの上、そう。左手はこの糸を持って、絶対に離さないでね。いえ、やっぱり結んでおきましょう。縛ってから、手首で三回巻いてちょうだい」
いざその時か、と狼狽える暇もなく、モモの視界は暗闇に沈んだ。
気絶した、にしては妙に意識がはっきりとしている。けれども足元がおぼつかなく、地盤が悪いのかと目を向けると、足がないのだ。はたと両手をかざすと、それもない。驚きは鼻先で一気に膨らんで、頭の面積を超えてそのまま膨らみ続けるようだ。
徐々に驚愕の波が遠ざかり、記憶が薄れると共に視界が戻ってくる。
遠く、前方にうっすらと光る流れがある。
モモはそれを、本能的に恐れた。そして遠ざかろうともがくのだが、消えてしまった身体は言うことを利かず、するすると抵抗なくそれに近づいていく。
金の粒が流れる、河であった。
河にも見えたし、樹にも見えた。中心に終わりのない太い流れがあって、そこからあらゆる方向へ、動く糸が繋がっているのである。そしてまた、そこから細かな行路がある。無限に分岐する、循環だった。
粒は絶え間なくさざめいているが、常に一方へ過ぎるわけではない。それでいて、不規則な様子は見られない。全く自然に、安定して、凪いでいるのである。
黄金の河は、近づくと妙な部分があった。
表面に、虫が食ったような穴がある。そこはもう、埋まることはできないらしい。曲線でできた空白を、光は避けて動く。流動型の穴は、無数にあって、どれひとつとして同じ形をしていない。
モモは何故かはわからないが、テイムズ河で見た、死体の幽霊のことを思い出した。
気が付くと、部屋に引き戻されている。
焦点の合わない目を瞬かせてしばし、右側でふらつく影があって顔を上げると、それはサーシャだった。
顔中の目と言わず鼻と言わず、血を流している。全身に浮かぶ汗ですら、赤みが勝っているように見えた。ごぼっと不愉快な音が喉からして、サーシャは床に崩れ落ちながら、血液の塊を吐き出した。
「し、死な、なくて、よかった わ」
痰が喉に絡まった、激しい息遣いの音に慄きつつ、モモがその背を擦ってやると、サーシャは微笑を浮かべて同居人にふり返る。
「死ぬ可能性があったの?」
「あなたにはないわ」
そっけなく言い捨て、サーシャはまた黒い物を嘔吐する。姿勢が悪いので無理やりに背筋を伸ばすと、サーシャは成すがままにぐったりと身体を預けた。
あれが地脈というものだ、とほとんど確信を持ってモモは思う。
人間が、勝手に接触して良いものではないはずだ。あらゆる世界から、魔力と記録が蓄積される場所なのである。
サーシャは見習い、しかも接頭語に『元』が付く。禁を犯して地脈と接触するのは、上手くいかない可能性が高かったのではないか。だから無理して幽霊を同行させた。視界を共有することだって簡単ではなく、リスクだって上がっただろうに。
モモは胸が詰まり、サーシャの背に置いた手に、思わず力を込める。
二回ほど更に窒息しそうになった後、サーシャは看護の手を振り払い、腕を床に置いて、自力で身体を起き上がらせた。
あの穴は、記録に接触しようとした跡な気がする、と囁く。
「あれは魔女の使う数式じゃない。何か別のものが、ある記録を探すのに浸食したのかも。そしてそれを、他に知られたくなくて消したのか、……食べたのか……」
おぼつかない足元を机に寄りかかって支えると、サーシャはちょっと腹部を抑え、眩暈でもしたのかぎゅっと目を瞑った。
「トイレ」
貸そうとする手をすげなく追い払って、サーシャは浴室に籠って出てこない。
取り残されたモモは耳をそばだてつつ、部屋の片づけを始める。
倒れる音がしたらドアを蹴破ってでも、という気積もりだったが、何の音もしない。それはそれで心配になったが、吐しゃ物と血液をそのままにするのも良くないので、我慢して始末に専念した。
フローリングの目地に濡れた跡が残ったが、それでもだいぶ目立たなくなったので、幽霊は掃除を止めた。
顔を上げると、夜半である。カーテンの隙間から、窓のサッシに溜まった雪がこちらの様子を伺っていた。水滴のついたガラスが、いかにも寒そうである。
サーシャはまだ出てこない。
ゴミ袋に汚れた雑巾を拾って集め、そのままでは支障がありそうな手芸品はひとまとめに、ついでに机上のまじないの跡も一掃する。通常サーシャが使うまじないは一回きりのものだから、もう要らないとの判断で。そうでなくても自分が憑いている少女をここまでいたぶったものが憎らしく、さっさと目の前から消してしまいたかったのもあった。見た目に変わりはなかった糸は、触れると腐食でぼろぼろと崩れる。
袋の口を縛って、玄関前に放り出す。
することがなくなると、モモは侘しい気分になって、居間の中をおろおろ歩き回った。
魔女の部屋らしく、ここには家電が少ない。唯一あるラジオに目がついて、すがるようにスイッチを捻る。
気まぐれにサーシャが点けるのは決まって放送協会のチャンネルなので、ダイヤルの動きが悪い。けれど無理やり変えて、歌謡曲でも楽しむ気分でもない。聞こえてくるざらざらしたニュースの声に、幽霊は耳を近づけて集中した。
アナウンサーが抑揚なく述べる文章の中に、「白鳥」と「運河」の単語があった。思わずラジオに齧りつく。
「ねえ、さっきの。死体が消えたって」
極東出身の幽霊は、英語が苦手だ。
だからニュースを聞き間違ったままでないよう、ラジオを持って急いで浴室のドアに張り付いた。夜中なので、声は荒げない。そうしたつもりだったのに、薄暗い廊下に音が響いて、モモは首を竦めて片目を閉じる。
返事はないが、内部で用事を済ます気配はある。洗面所の蛇口から流れる水音が、ぴたりと止んだ。
「何の?」
とサーシャは、洗ったばかりの顔を覗かせる。
浴室の白色電球の逆光の中で、妙に血色が良い。ほんの数分前まで死者の肌をしていた頬が、バラ色をしている。モモは訝しんで眉を上げた。
パチン、と背後の居間で弾ける音がして、凍えるような突風が廊下を走り抜ける。モモはうっかり、手の中のラジオを取り落とした。窓の開く音、そこに人の息遣いを感じて、二人は顔を見合わせた。窓から、来訪者であるらしい。
「サーシャ、いる?」
聞きなれない声ではあるが、魔女であることは確かだ。モモは胸を撫でおろして、晴れやかな気分で名前を呼ばれた同居人を見る。
サーシャは師匠や使い魔ファミリアから返事がなくて狼狽し、姉弟子の誰かに連絡しようとは思いつかなかったに違いない。誰かは知らないが、元妹弟子を見舞う余裕があるということは、つまり事態は切迫しているのではないと結論づけられるのではないだろうか。
あからさまにほっとした幽霊の想像に反して、サーシャはぱちぱちと瞬きをふたつ、口元の笑みには困惑が浮かんでいる。それが何を意味しているのか、モモにはわからなかった。
そろそろと居間を覗き込むと、冷気が床の上で渦を巻いている中央に、女性がひとり立っている。
肩までの細かく縮れた黒髪が、卵型の顔を柔らかく包んでいた。浅黒い肌は陶器の様に滑らかで、色からしてチョコレートそのもののようだ。ハウンドトゥース柄のロングコートに良く映える。まつげの長い目は大きく、意志的な眉は少し下がり気味だが、形は整っている。
それでいてーー美しいという言葉がついて出ない。
生き物らしさがまるでない。第一印象にまず不気味を感じさせるのは、魔女の専売特許なのかもしれない。
サーシャよりは年上に見えるが、ではいくつかと問われると、はっきり答えられない。
もっとも魔女とはそういうもので、これまで何百人も育ててきたと自称するサーシャの師匠も、見た目だけならちょっと小じわが出始めた中年始めにしか思えないくらいだ。
例えホウキを手にしていなかったとしても、この浮世離れした表情と独特の雰囲気では、ヒトに紛れても一瞬で浮くだろうな、とモモは一瞬思った。
それを感知したわけではあるまいに、来訪者は華やかな笑顔を浮かべると、
「突然、お邪魔してごめんなさいね」
と明るい声を出した。モモは反射的に、後ろへのけ反った。自然な挨拶に、違和感が拭えない。サーシャは相変わらずきょとんとして、何も考えてないように唇を少し開いたままでいる。
「本のおねえさま?」
どうしたの? とサーシャが混乱状態にあるのも、モモには理解できなかった。妙な事件が立て続けに起こった場合に、頼りになる知り合いがやってきてくれたら、もう少し嬉しそうな態度をとるのが、普通ではないか。けれど元姉弟子を前にした少女の顔には、本気でわからないと書いてある。
本の魔女と呼ばれた姉弟子は、雪が解けて水滴るホウキを持つ手とは反対の指をパチン、と鳴らした。窓からの雪明りが余韻に反射して、部屋中にこだまする。
手の中からホウキが消えた。
「ほら、先週師匠と来た時に、糸を頼んでいたでしょう? あれが急に必要になったの、もう出来てる?」
キツネにつままれたとは、このことである。居間の入り口に二人で狭苦しく並んで立ち、サーシャとモモは顔を見合わせた。
「糸……?」
元魔女見習いは、その単語を二・三回口の中で繰り返していたが、急に何を思い出したのか、目を上げてじっと本の魔女を凝視した。
「ああ、あれ。今取ってきますから、座って待っていて」
「たくさんだから、慌てなくていいのよ」
「たくさん、そうね」
かけられた言葉を、そのまま反芻する。サーシャは作業部屋へ足先を向けた。モモが盗み見たその瞳は、暗くて底が見えない。
「たくさんの糸だったわね」
千鳥足でふらふらと、サーシャは沓摺に躓き転がるように入室すると、なぜかドアを後ろ手に閉じた。ドアの上部の明り取りのガラスに、ぱっと明かりが灯る。
同居人の後ろ姿を見送った幽霊は、薄暗い室内に、初見の魔女とふたりきりだと気が付いて、背中の毛が逆立った。振り返るタイミングが掴めず、視界の中に後方の在り方を知る手立てはないか、目だけをきょろきょろさせた。
先週、誰も来訪してきたものはない。
師匠が最後にやってきたとき、同伴者は誰もいなかった。珍しくファミリアもいなかったので、サーシャを独り占めした魔女は、ご機嫌で帰っていったのだ。
あからさまにそれとわかる嘘をつく本の魔女に、サーシャが話を合わせている理由が図りかねる。
姉弟子はくすくすと笑った。
背中のすぐ後ろ、ずいぶん高いところから声が聞こえ、モモはぎくりと身体を強張らせる。
「わかってるわ。わたくしはここに来ていないし、約束なんてしていない」
触れるほど耳から近い位置から、本の魔女はそう囁いた。
そして、さっさと離れていく。金縛りが解けたモモは、精一杯の虚勢を込めて勢いよく振り向いた。
魔女は先ほど安置して忘れていた、緑の雪入りジャム瓶を、勝手にポケットへ詰めているところだった。
モモは非難の色を隠そうともせず、
「それは」
と口にしてから初めて、それが何か知らない自分に気が付いた。
サーシャはそれを、高名な魔女の遺産のように語っていた。死に関係した物だとも。それで、なぜ少女は死体様のものなど、集めておく気になったのだろう。ほんの少しずつを、重たく大量のガラス瓶などに。
一連の行動から見れば、それを師匠に渡したかったように思う。だが、何のために?
連想したのは、白鳥の姿をした魔女たちの死体のことだった。
その前に無意識にスイッチを消しただろうか、単純に落として壊れたのだろうか、とにかくラジオからは現在、何も情報は流れてこない。
先ほど確かに、今日の夕方テームズ河に浮いていた鳥の死体が、消えたと言っていた。リスニングには自信はないし、確かめないまま聞きかじったニュースが本当に正しかったのか、時間が経つ毎に曖昧になる。
消えた、というのが正しければ、盗まれたと同義とできないだろうか。
そして目の前には、堂々と盗みを働いている魔女がいる。
「いいえ、わたくしは元凶ではないわ」
ただ少し、改ざんしただけ。
顔すら向けず、本の魔女は声に微笑を含ませて、モモだけに聞こえるように言った。心を読まれたのかと、幽霊は身構える。
本の魔女はやるべきことを終わらせて、同情を露わに眉根を下げてみせた。モモにはその仕草が、からかわれていると感じられた。背の高い黒人魔女は、益々困った顔をする。
「心を読んでるわけではないのよ。書き換える前を知っているから、返事ができるの」
唐突に魔女は優しい声音で、本当は自分は調剤が好きなのだ、と告白した。
「でもわたくしは本の魔女だから、薬ばかり作っていられない。わたくしなら、困ったことが起こっても、起こる前に戻って直せるから。だからいつもこんな風に、命令されてバタバタしてる」
本心を言えば、サーシャが羨ましい。妹のように特別何かに長けていなければ、魔女として大成するよう説得されることもなく、また義務も生じず、ヒトごっこで遊んでいられたのに。
本の魔女はそれが愚痴でしかないことは承知していたので、淡々と呟いても、ため息ひとつ零さなかった。モモはそこで初めて、本の魔女に親和を覚える。
全ての物語を改ざんできるはずの彼女にも、やれないことはある。
「魔女たちの死体はヒトに知られすぎてしまったから、もう書き直せなかったの。移動させるのがせいぜいで」
変更する箇所が多ければ多いほど、辻褄を合わせるのが難しくなる。そして一度変えてしまった事項は変える前には戻せないので、何度もやり直しができるわけではない。最小限の変化と、ある程度の犠牲は許容しなければならない。
「それは、誰の基準でですか?」
「ごめんなさいね、教えてあげられない。あなたは74階層の子だから、わたくしの術式が効きづらいの。ここにだって、緑雪を回収に来ただけだしね」
モモは出来るだけ時間を稼いで、サーシャが帰ってくるのを待とうかと思案した。けれど、あの様子の元見習いが戻ってきたところで役に立つとは思えないし、それでは別の作戦があるのかといえば、そんなものはない。
幽霊はちょっと泣きたくなった。
「でも、何かひどいことが起きているんじゃないんですか。当事者じゃなくても、知りたいと思うのは当然じゃないですか」
ほとんど食ってかかったのは、本心を吐露する以外に、できることはもうないからだ。
魔女の目的はわからない。妹分のサーシャへの対応がああだったのだ、部外者に答えるつもりはないのだろう。このまま終わってしまうことが、モモには悔しくてしょうがない。
子どもの駄々を眺める目で、本の魔女はそっとモモを諭す。
「いつものことなのよ。世界ってのはね、毎分毎秒、消滅の危機に瀕しているの。でもそんなこと、知らない方が楽でしょう?」
モモは魔女が入って来た窓の外に目をやる。深々と、雪が降っている。
薄銀色のカーテン、小ぶりなソファの片側には夕方放置したブランケットがひっかかっていて、フローリングの床に図書館の本が積まれてある。全てが、普段通りの部屋だった。
本の魔女がまた、指を鳴らす。
「いつもみたいに、誰かがなんとかするわ。なんとかならなければ、全て灰となるだけよ。それだって、大したことじゃない」
次に指を弾いたとき、モモの立っていた床が抜けた。
足の下の質量が瞬時になくなって、何かに引っ張られるように、勢いよく下方へ転落する。穴から吹きあがる風が身を切るように冷たかったが、それをモモが思い出すのは、ずっと後になってからだった。
「あなたは帰してあげましょうね。せっかくクリスマスなんだもの」
落下する幽霊の目に、下から見た艶やかな指を振って挨拶をする本の魔女の姿が映る。丸く切り取られた光景は見る見るうちに遠ざかって、明るい粒となりやがて消えた。
フローリングの床を見下ろして、魔女が微笑む。
「大丈夫よ、糸が繋がってるからちゃんと戻れるわ。でも世界が崩壊して、再会を喜ぶ時間がなかったら、ごめんなさいね」
ノブを捻る軽い音がして、弱り切ったサーシャが小走りに居間へやってくる。
「おねえさま、ごめんなさい。何色の糸をご所望だったかしら?」
本の魔女はテーブルに腰かけて、優雅にふくらはぎを揉んでいた。履いていたロングブーツが脱ぎ捨てられ、底から泥が落ちて部屋を汚している。
常識がある人間ならば顔を顰めるところだが、サーシャは平気だ。一番近いイスに濡れたコートが干してあるので、そこに座れないのは明白であるのだし、机の上に汚点があれば、魔法でも薬品でも洗浄すれば良いだけである。
サーシャは姉弟子が作り出した部屋に浮かぶ無数の明かりを吹き消して、電気を点けた。
なぜ、わたしの外出着が居間にあるのかしら。
今日は一日中、本を読んでいたのに。ふと疑問が浮かんだが、本の魔女が妹弟子の顔を覗きこんだので、その蕩けるような笑顔に誤魔化されて、すぐに忘れてしまった。他にも頼まれごとがあったはずなのに内容があやふやなのは、風邪でも引いて熱を出しているのかもしれない。
ふわふわとする意識の中、サーシャは紅茶でも淹れてもらおうと、部屋内を見渡したが、目当てのものがいなかったので、ちょっと目を剥いた。
「消えてしまったの?」
家の中からは、どんな物音もしてこない。まるで、居間にいる魔女の他には誰も住んでいないようだった。当惑するサーシャの横顔を、本の魔女が意外そうに、しかしどこか面白そうに、見つめている。
「なにが?」
サーシャが姉弟子へ視線を向けるのと同時に、目の前でチョコレート色の指が、パチンと音を鳴らす。
読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。