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16.普通

 手塩にかけて育てた愛弟子が、「やっぱり普通の人間になる」と進路を変えて、しばらくになる。
 もちろん魔女になるにしてもひとり立ちする日はやってくるのだし、早い段階で人生の方向が見えたのは、きっと良いことなのだろう。
 しかし、それは建前だ。こちらとしてはこの先何年か何十年か、預かり子の育成計画が唐突に打ち切られて、手隙なのである。
 いや、ここは正直に言う。
 寂しいのだ。あの、泣き虫のみそっかすが、ずいぶん後になるまで夜尿症が治らなかった愛娘が、ひとりで、人間の荒れた社会で、ちゃんと暮らしているのか心配なのだ。
 久しぶりに引き受けた弟子だっただけに、心配も手放した後悔も、殊更なのである。
 魔女は正式に弟子をとる前に、適性を見届けるためそれを「預かり子」と呼び、しばらく生活を共にする。魔術師にとって継承者は魔術体系を共有する、肉親よりも強い繋がりを持つので、その見極めは厳しい。逆に一度受け入れたら、それはもう絶対なのだ。
 もちろん性格にもよるだろうが、わたしのように古い世代には、弟子なんてもう孫みたいなものだ。その上、この最後の弟子は、かなり出来が悪かった。そんなもの、かわいいに決まっている。
 幸いと言おうか、弟子は性質の穏やかな子だから、未だに師匠と呼んでわたしを大事にしてくれる。魔女は研究に没頭する性質だから、独立したら過去とはきっぱり決別することが多いので、その点は「普通の女の子」、大いに結構である。
 そんなわけで、暇を見つけてはちょくちょく元弟子の顔を見に行く。
 娘は被服系専門学校に通っている。
 今になって思い出せば確かに、落ちこぼれのあの子と唯一相性が良かったのが裁縫だった。
 特に糸を使ったまじないはなかなかで、少し修行を積んでいたのなら、古参の魔女にも引けを取るまい。
 なにせ、刺繍など根気のいる作業は、最近では人気がない。年をとると億劫がるのはどの生き物も同じだから、今の有名どころが死んだ後にはその分野で、ひとかどの魔女に成れたのに……と、残念がってはいけない。
 娘の決断は、娘の決断。
 とにかく、衣類の勉強をしている。ヒトの世界ではオートクチュールなど流行らないから、基本的な仕立てパターンを一通り、あとは機械が使えるよう学んでいるところであるらしい。
 今好まれる服を安価に作り、使い捨てする。人間の考えることは、相変わらずよくわからない。そんな魔窟で生活していると、さぞかし心が削られるのではないだろうか。
 そう思うと胸が痛む。そしてせめてもの慰めに、来訪時には手土産を忘れないように心掛ける。
 元弟子は甘いものが好きだけれど、食事を作るのが面倒な時のために、シチューの冷凍やすぐ食べられる瓶詰も、一応持っていく。今日は冬トマトの水煮、カモで作った燻製、オックステール煮込み、それから駅前パン屋で贖ったチョコレートにティーケーキ。
 合鍵は貰っているけれど、駅からあと何分で付くか連絡に式神を飛ばし、入り口で呼び鈴を押す等、きちんと手順を踏む。いきなりホウキで、窓から来訪するのはマナー違反だ。
 師匠らしく、人間の作法にも詳しいふりをしなければならない。
 ドアの向こう、ぱたぱたと走る音がして、愛弟子が顔を覗かせた。小さな丸い顔に、微かな笑みを浮かべている。軽い抱擁とキスを交わして、わたしたちは部屋に入った。
 と。
 部屋の中に何かいる。
 少年のような姿で、くつろいでいる。明らかに人間ではない。
 前回部屋を訪れた時には、こんなものはいなかった。
 こんな短い期間にどうして、と思ったが、よくよく思い出してみたら、ひょっとしたら何か月かご無沙汰をしていたかもしれない。長命な魔女の、「あるある」なのだ。最後に会ったのは夏の終わりだったし、それにカフェに行ったのだった。え、そんなに会ってなかった?
 わたしは動揺し、そういう時はいつもそうであるように、黙りこくってその場に立ち尽くしてしまう。
 目の前の少年は、ポドフィルムを室内干しするために広げられた新聞のそばにしゃがみ込んで、熱心にスーパー広告の割引を読んでいる。
「どうかしました?」
 土産を受け取って、不思議そうに愛弟子が尋ねた。
 礼儀の正しい子だから、わたしが会ったことのない人間が家にいるのなら、紹介くらいはするはずだ。そもそも、自らの巣に他人を招き入れるような娘ではないのだ。
 わたしはちょっと、困ってしまった。
 弟子が何らかの施術、例えば召喚とか使い魔作成に失敗したのでは、ないと思う。この子は裁縫以外はからっきしなので、自発的に魔術執行するはずがない。実行する魔力だって足りないのだ。
 そうなると、残りの可能性は外部からの干渉ということになる。
 普通、魔女は別の魔女にまじないをかけない。避け方を知っている同業者相手では、不毛な行いであるからだ。だからもしこの事態に犯人がいるとしたら、落ちこぼれの元弟子なら効果があるかもしれないと知っているもの、つまり親しい関係者、更に恨みがあるもの、あるいは単純に頭がおかしい人物。
 どれも憶測でしかない。物騒なことを言って、若い娘のひとり暮らし、怖がらせるのは可哀そうだ。そもそもヒト型だが、これはなんなのだ。何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
 相談がしたいな、と思った。
「クリームリキュール」
 つい、口に出た。
 出てしまったものは仕方がない、このまま誤魔化してしまう。
「買ってきて。今。飲みたいの」
 片言になってしまったが、押し通せば問題ない。愛娘は目を見開いたものの、だからといって迷惑そうでもなく、さくさくと外套を身に着けた。ブーツを履きながら「欲しかったら、お茶でも淹れて待っててくださいね」と微笑む姿は流石である。
 長年わがままに付き合わせた結果の、娘の素早い理解には感謝すればいいのか反省すればいいのか。それに、中々ヒトらしい仕草が板についてきたじゃないか、部屋の中も掃除が行き届いているしーーいや、今はそれどころではない。
 とっさに彼の好物の名を出してしまったので、誰を呼び出そうとしているのか、弟子は気が付かれているはずだ。
 階段を遠ざかっていく足音を確かめて、名前を呼ぶ。
 意外にも、足元の影からすぐに、ファミリアが顔を出した。
 わたしたちは対外的には主従関係に見せてはいるが、契約上は対等の立場なので、ふらふらしている彼を呼び出すのに、いつもなら時間がかかるのだ。さては今日の来訪を嗅ぎ付けて、師匠弟子水入らずの邪魔をするつもりだったな、と舌打ちをひとつ。ファミリアは知らん顔をしている。
 二人で振り返ると、部屋の中の少年は気配を察知しておっかなびっくり、こちらをじっと見つめていた。
 どうやら、お互いに干渉はできそうである。
 声をかけてみる。驚いた顔が返ってきた。たどたどしく口を動かすのは見えるのだが、声は聞こえてこない。耳鳴、あるいは電子的な摩擦音が代わりに響いた。 
 わたしには質感まではっきりと見えているが、ファミリアもそれは同じらしい。弟子の部屋に妙な男がいるのが気に食わない精霊は、毛量が多い自慢のしっぽを、床の上にぱたんと強く打ち付けた。
 びくり、と相手が飛び跳ねる。けれど、挙動のすぐ傍にあったというのに新聞紙は動かない。
 少年はファミリアへの恐怖心を隠そうともしない。
 その態度はわたしでも流石に失礼だと思うのだが、ひょっとしたら、人語を解する生き物だということすら、知らないのかもしれない。ということは、魔術には縁遠い存在であるということか。
 まだ、よくわからない。
 何故か正座している少年を、上から下から、ためつすがめつ観察する。フローリングに直に座っても寒くないのだろうか、けれどこれは不必要な疑問なので胸の内に留める。
「どうしたもんかなあ、これ」
 交流できそうだとわかると、少年は身振り手振り、ジェスチャーをいくつか、口を大きく開けてゆっくり発音してみたり、思いつく限りの意思伝達方法を試してくれるのだが、どれも何が言いたいのか、さっぱりわからない。
 男の子が平たい顔をしていて、表情が乏しいせいもあるかもしれない。
 少なくとも、知能的ではありそうだ。ならば、ここから排除して終わり、というわけにいかないかもしれない。無用な殺生をしたと後で知られたら、弟子に怒られる可能性がある。
「そもそも、ヒトの精神体なんですかね。これ」
 ファミリアがぽつりと零す。
 実際には、彼は音を発するのではなく、精神感応に近い。他に聞こえないわけではないのだが、わたし達に共通する周波数に魔力を乗せているので、それを知っている関係者、あるいは魔素に敏感な精霊以外へは聞き取りにくい。
 だがそれに、少年がはっきりと反応した。
 大きいねこっぽい何かが喋るとわかると、人間はこういう反応をする。けれど、普通の人間にはファミリアの声は聞こえない。彼が言ったように、人外の確率がぐっと跳ね上がった。
「ほら昔、本に入り込んでしまう子がいたでしょう。あれなんじゃないですか。あれの逆」
 ああ、とわたしは、かつて巣立っていった預かり子のひとりを思い出す。
 ヒトの社会で育ちながら魔女に近い子で、時々世界線を跨いでは、現実の常識を曲げるなどしていた。特に本の中の精神世界に干渉しやすく、物語を破壊するだけなら良いが、たまに作者自身を崩壊させたりするのには困ったものだ。
「ああ、あの子はファッジが好きだった。元気にしているだろうか」
「その話はしてないんですよ、今」
 つい思い出に浸りそうになったが、ファミリアに嗜められてぐっと堪える。
 けれど考えるまでもなく、少年が本から出てきたとは到底思えない。具現化しても違和感がないのだ。そんな人物を、想像で描ける筆者はほとんどない。それに文豪の言霊が破綻していたら、もっと大勢がそれに気が付いて当然だ。
 更に、本の子の魔術は特異だった。それこそ本人がここにいない限り、発動すまい。
 ファミリアの言葉を理解している証拠に、少年は両手を開いたり閉じたり、本の真似を繰り返す。けれど、新聞を指して作ったアルファベットの並びでは、「本」という単語にならない。
「どういうことだ? 文字だけが共通の外国語か?」
 その程度の推理、例え即座に解決したところで無駄ではあるが。
「ご主人、もうちょっと実のある事実を探さないと。そろそろ帰ってきちゃいますよ」
 ファミリアが急かして言う。それは本当にその通りなのだが、お前だって役に立っているわけじゃないだろ、と鼻に皺を寄せる。察知したファミリアが、ちょっと牙を剥く。少年がまた、怯えてのけ反った。
 そもそも、これはわたしの管轄ではない。
 わたしは治療と暗殺に特化した魔女なのだ。
 心霊手術で不治の病を治すのは得意だし、証拠も残さず死に至らしめる、なんてことなら朝飯前だ。何かの正体を暴くのは畑違い。それは探偵の仕事だろう。
 そこで、はたと気が付いた。謎の解明など、する必要はない。
「よし、わからん。放っておこう」
 わたしが心配していたのは、コレが愛娘に危害を与えるかもしれない、ということであったのだ。危なくないのなら、どうでもよい。
 ファミリアと、こちらの言葉はなんとなく理解しているらしい少年は、大きく目を見開いた。
「黙っておくんですか?」
「むしろ、黙っておく以外に何ができるんだ?」
 言葉が通じる。ならば弟子の邪魔にならないよう説得するか、駄目なら脅せば言うことを聞くだろう。どうしても駄目そうなら、抹殺すれば良い。幸い、どんなものであろうと灰にできる自信はある。
 少年が慌てているのは、恐らくやっと言葉が通じる相手を見つけたのに、目の前で切り捨てられたからだろう。必死で何かを訴えているが、やっぱりわからない。
 一歩踏み出した拍子に、足元に干してあった薬草を蹴とばしてしまい、わたしはおや、と少年の足を注視する。先ほどは確かに、物質に触れることができない様子であったのに。不安定な生き物なのかもしれない。
 例え彼が呪いの類ではなくても、激昂するものを甘く見るのは危険である。
 少年の身振りが大きくなっていったので、ファミリアがわたしの前に飛び出し、犬歯を剝きだして、威嚇音を出した。少年は今にも泣きだしそうである。
 この好機に、精神にタグ付けしてしまおうと、わたしは彼の頭に手を伸ばす。
「どうしたんですか?」
 背後から声をかけられて、わたしは多分叫び声を上げたと思う。
 ファミリアもそうだ。耳に鋭い電子音と共に、壁を打つ響きは少年だろう。わたしは弾かれたように弟子の顔を見、それから床に這いつくばった未だ正体不明の何かを確かめ、またしても言葉が出てこない。
 娘は恐らく、わたしがファミリアを呼び出しているとわかっていて、驚かそうと少し前から気配を消して、帰ってきたらしい。おかげで、全然気が付かなかった。いつもだったら褒める所だが、今は心臓がバクバクして考えがまとまらない。
 寒さで頬が赤くなっている。手袋をした手で、しっかりとリキュールのボトルを抱きしめている姿があどけない。
「それが何かしました?」
 元弟子はリキュールを食卓に置き、外出着を脱ぎながら質問を重ねた。玄関でそうしなかったのは、そこから多分こちらの緊張感が伝わったせいだろう。宥めるようにファミリアの顎をさりげなく撫でながら、
「大丈夫ですよ。この辺ではあまり見ないけど、別階層で幽霊とか呼ばれるものだと思います。有機体から逸脱する際か、時間軸がずれたからか、霊体が損傷したんじゃないでしょうか」
 だから話ができないみたいだけど、悪いひとじゃなさそうですよ、とけろりとした顔で言う。
 幽霊と定義された少年を含め、三人揃って、開いた口が塞がらない。
 一触即発の雰囲気がなくなったと見ると、娘はちょっと肩をすくめてキッチンへ行ってしまった。ガス台にやかんを乗せて、お湯を沸かせる気配。
 少年とファミリアと三すくみのまま、わたしは視線だけをそちらへ向けて叫ぶ。
「見えてるのか?」
「なんで見えてないと思ったんですか?」
 同じように弟子が叫び返した。
 曰く、時々思いがけない縁が絡みつくことがある。
 得意の裁縫のまじないは、多くの場合に糸を扱うので、繋がりがひっかかってしまうことはよくあるのだそうだ。
 彼女はあまり魔術が得意ではない。こんがらがったものを解すのが苦手なので、自然に外れるまで、放置することがほとんどなのだ。だから「居る」ことは知っていたが、気にしなかったのだという。
 そのときの脱力感は、例えようもない。
「なぜ、説明しない」
 温かなお茶を運んできた娘は、よくわからない顔で、順番にわたしたちを見た。
 数か月の間、おくびにも出さなかったらしい。少年は動揺を通り越して、顔の肌が土気色に変わっていた。
「だって、ルームシェアってそういうものでしょう。お互いに干渉しないのが基本だって、聞きましたよ」
 わたしは返事に迷って、卓上の茶菓子を見る。ティーケーキと、ラズベリーのジャム。スープ皿に、ファミリア用のクリーム。当のファミリアは机を囲まず、少年と並んで部屋の隅で頭を抱えている。
 出来の悪い元弟子は何を思いついたのか、澄んだ目を輝かせて、
「あっ、ひょっとして、紹介くらいするべきでした?」
 と尋ねた。
 やっぱり、この子はあまりヒトに擬態するのが、うまくないのかもしれない。
 多分人間の社会でも、突然勝手に住み着いた幽霊との共同生活をルームシェアとは呼ばないということを、娘にうまく説明できる自信がない。
 テーブルの上、カップのお茶がただ冷めていく。


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。