![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/86666823/rectangle_large_type_2_4041b62496ba8358e29c95ecf85f4311.jpg?width=1200)
06. 帽子のジンクス
僕の大叔父には、帽子の話を振ってはいけないという不文律がある。
この人が四人姉弟の末っ子で、しかも唯一の男子だものだから、家族と言わず親族から、真綿に包まれるように守られて育った。
家はそこそこ裕福だったから、世の常としてはろくでなしの放蕩息子になるはずだが、そんなことにはならなかった。身体が弱くしょっちゅう寝込んでいたので、非行に走るほどの体力がなかったのだ。
成長するにつれ健康になったが、線の細さは相変わらずだった。
父譲りの長身と先天的な体格の良さが約束されていた彼に対して、病弱を惜しむ声は多かった。男子たるもの、屈強であれという時代の話だ。
表向きにはそういう社会方針ではあったが、実際には大叔父はかなりモテた。
花よ蝶よと箱入り娘よりも大事にされた彼の内面は大分に女性的で、かつ繊細だった。儚い見た目が相手を惹きつけること男女の区別なく、他人の口から語られる叔父の武勇伝ーー美少女や寡婦や貴族のお姫様から苛烈なアプローチを受けて奥手な青年が狼狽える話とも言い換えられる――の中でさえ、匂い立つようである。
僕は彼が若い頃の写真を見せてもらったことはないが、現在老境に入って尚、ちょっと人目を惹く容貌なのである。だからというわけではないのだけれど、普通ジンクスなんてくだらないと笑い飛ばしてしまう人でさえ、大叔父の話にだけは「そういうこともあるだろう」と納得してしまうのだった。
七十年の、ロイヤルアスコットでの話をしよう。
その年の王室主催の競馬も盛り上がったと聞くが、そのことは大叔父とは直接関係がないのでここでは触れない。とにかく叔父が招かれて観戦し、それに付き添っていた姉であるところの僕の祖母が、知るうる限りで最初の「帽子の犠牲者」に気がついたのだ。
女王陛下がおわす会場だから、来場者には厳しいドレスコードが課せられる。
僕は行ったことがないので詳しくないのだが、男女ともに、帽子の着用が義務であるということだ。現在はちょっと違うのかもしれないが、とにかく当時を聞いた話ではそうだ。男性ならタキシードにシルクハット、女性はドレスに合わせて色とりどりに。
一般的に生花を飾り、造花のたっぷりした華やかな帽子を身につける中、ある令嬢は豚の頭にソーセージの垂れ下がったユニークな帽子を被っていた。
家畜の皮膚は蛍光ピンクに塗られていて、もちろん作り物である。
帽子をたいそう気に入った大叔父は、彼女に話しかけた。
通常、男性は礼儀の範囲外では、女性の装飾品について語りたがらないものである。しかし先述の通り、大叔父は当時としては女性に近しい感性を持っていて、見た目も柔らかだった。初対面の相手は声をかけられて驚いたそうだが、すぐに打ち解けて仲良くなったらしい。
食品加工で急激な成功を収めた家の娘だったそうだ。後に周囲から聞いた話では、どうもやっかみから心無い中傷を受けていたらしい。だがそんなことはおくびにも出さない、朗らかでユーモアに溢れた令嬢であったという。
大叔父は彼女との交流を、その日一日楽しんだ。特に豚の帽子は、目に入るごとに褒めていたらしい。
そして別れてすぐの帰り道で、その令嬢は事故に遭い、首を失った。
身体を車体に押しつぶされた令嬢はどうみても即死であったので、現場確認が終わるまで遺体はそのままにされた。やっと諸々が片付き、帽子をどかしてみるとあるはずの首から上がなく、ちょっとした騒動になったらしい。
後日の新聞で記事を見つけて、僕の祖母は息を吞んだという。
そのようなことが、大叔父と帽子の話をした人に、その後四回ほど起こった。家族が知り得た範囲での数字だから、現実にはもう少し多いと思われる。
その五人は事故であったり自殺であったり、あるいはソファの上で倒れていたり、死因は異なると思われるのだが、一様に鋭い刃で一瞬の内に切り落とされたような首の断面を以て上がなく、未だにどの頭も見つかっていない。
最初の令嬢の時、祖母は訃報を大叔父に知らせなかった。
次の約束もない新しい友人が、再び巡り合う機会がないまま縁遠くなるのはよくあることだ。ひ弱な印象が抜けない弟に余計な心労を与えるのを恐れて、つい隠してしまったのである。
そして祖母がジンクスに気が付いた後にも、なんとなくそのことを本人に伝えることのないまま、半世紀以上がすぎてしまった。なぜか家族はじめ、近しい友人たち全員が祖母に賛成していて、仮に大叔父と帽子の話になりそうになると、話題をかわす術を身に着けて今に至る。
だから大叔父本人は、その個人的なジンクスに気がついてもいないのである。
読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。