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94. ありがとうございました

 科学館のアンケートがきたのだ。
 大規模な鉄道のストライキがあるということで、自主的に休校にした日の、午後も早い時分だった。
 直前までは、出かける予定がない時ほど晴れるロンドンの意地悪な空を眺めつつ、キッチンで食後のコーヒーを淹れていた。
 姿は見えなくても、庭を訪れたコマドリの可憐な声がする。特別に何があるというわけではない、ありふれた午後。
 両親も在宅する曜日だったが、ふたりとも学校をサボった僕に、何も言わなかった。
 運航中止とはいえ、バスは動いているのである。無理をすれば、学校にいけないことはなかった。けれど朝五時に家を出なければならないし、時間通り辿り着けたとしても、休講を前もって知らせてくるような礼儀正しい教授ばかりではない。
 前回のスト日はそうして、多くの時間が無駄となり、夕方の講義を終えて帰宅したときには、用意された夕飯が冷めきっていた。もちろん、どこかへ寄り道したわけではない。
 ロンドンでは、よくあることなのである。
 よく執行するのに一向に労働条件が改善されないのだから、この抗議方法では事が足りないということを、いい加減学習してほしい。
 登校できない学生、仕事に行けない大義名分を得ると全てが、その状況を歓迎していると思われたくない。少なくとも僕は、勉強がしたくて大学に通っている。せっかくのやる気に、水を差されるのは迷惑だ。
 不機嫌は残るが、それでも今日はまだずっとましだった。
 珍しく、多くの授業がこなすべき課題を出してくれていた。それらは程よく手ごたえがあり、調べものに忙しくしていられるのがよかった。僕の性格では、誰かに時間を無駄にさせられる、ということに一番気分が荒れるのである。だから折を見てはくさくさした気分が顔をのぞかせるにしても、やるべきことをやっている間は悩まされる時間は短めで、出題された問題内容にも集中することができた。
 母が気を使って昼の食卓に呼んでくれなかったので、課題はきりよく、中休みには終わらせることができた。
 昼食を取るには、かなり遅めではある。けれど、宿題が片付けば気分も軽く、午後に思う存分自由時間が楽しめる。美味しくパスタを食べ、気分よく水洗いした皿を、食洗器に片づけた。
 階段の三段ごとに手のコーヒーを一口啜り、さてどうしようか、散歩でも行こうか、とわくわくしながら自室に戻る。
 開きっぱなしだったパソコンのスクリーンが、目に留まった。
 メールボックスに、新着タイトルが『科学館のアンケートのお願い』と書いてある。
 ここでいう科学館は、サウスケンジントンにある国立科学産業博物館のことであろう。蒸気機関の模型が多く置いてあり、エンジニア志望の僕は後学のためによく訪れるのだ。
 たかが博物館と侮るなかれ、工学・科学・医療の分野で幅広い展示があり、大人が一人で来訪しても十分楽しめる所だ。
 けれどさすがに常設展ばかりでは食傷してしまうから、最近では新規イベントがあるときにだけ足を向けるようにしている。メール登録したニュースレターを受け取って、情報をチェックして、それから。
 アンケートは、そこから来たものと思われる。
 僕はさっきまで気が付かなかった、床に散らばる脱ぎっぱなしの服を拾い上げて、ちょっと考えた。いつもなら黙殺するところだが、科学館には普段大変お世話になっていることであるし、通信調査に協力してやるか、と上からの目線で頷く。
 なんせ、今現在は最高に機嫌が良い。
 それに本音を言うと、せっかくの日和ではあるのだが、一仕事終えた達成感が早々に出不精に変身しつつあって、外出が面倒くさかった。アンケートを名分に立て、そのままだらだらしていようか、という気分なのである。
 これだから、ストライキは困る。人は生来の怠け者なのだから、外野が立ち止まることを強制してはいけないのだ。
 何もかも鉄道会社が悪いと決めつけて、僕は汚れた服を部屋の隅に投げ捨てると、イスを引いて座る間にサイトへのURLをクリックした。
 見慣れた科学館のレゴが現れ、何やらポップアップに感謝の文面があるが流し読み、早速質問に答えるべく、ENTERボタンを押す。ページが再び切り替わる。見慣れたシンプルな字体、ミニマルな色使い。
 お定まりのプライベート情報――仕事、年齢、趣味など――の該当する箱にチェックを入れ、問答は来館頻度や興味のある分野の話題へと移る。工学がメインではあるが、自然科学もきらいではない。慎重に、自らの好む展示物の充実を願い、返答していく。
 カフェテリアを利用したことがあるか、という質問から、どのような食事を好むか、ダイエット傾向は、と発展していく。
 妙に細かい。最近は子どものアレルギーも多く、一般的で無難なメニューが少ししか置いていないイメージがある。思ったより集客数が稼げないのは想像に難くない。現状を打破するために、客の傾向を探りたいのだろう。
 同様に、トイレの項目では現場の衛生印象を伺うに留まらず、対象者の性嗜好に迫る問があった。そうか、現代ではそういう問題もあるのか。タイの学校には性転換者用のバスルームがある、ということを思い出す。異性愛者なのか同性愛者なのか、対象年齢層は、人種は。
 一転して、支持する政党、フットボールチーム、所属する宗教。
 これまでに使用したことのある薬物(違法を含む)。
 昨晩の食卓のメニュー。
 フォビア。
 子どもの頃、一番好きだった遊びは何か。
 わたしはアリを潰すことでした。
 あの黒く艶やかで機械じみた小さな生き物、六本ある糸よりも細い足を一本一本ちぎっては、葉っぱなどの上に上手く並べることに没頭したものです。頭と、胸と、胴の女性的な曲線に、三つに区切られた関節を、虫メガネで日光を集めて焼きました。普段はひとの目に止まらない顔の造形の美しさ、あなたは知っていますか。頭は落としたあともしばらく動くのです。それを指で地面に押し付けて、列を成す最初の一匹から丁寧に丁寧にすりつぶす、あの感覚が
「……何をしている?」
 背後から、父の声がかかった。
 わたしが振り向くと、開きっぱなしの部屋のドアに手を当てて、父がちょっと変な顔をしている。
 トラッキングシューズと登山用ベストを身に着けていた。毎日健康のために、夕飯前に半時間ほどウォーキングへ行くのだ。廊下から零れる明かりで逆光になった父で、いつの間にか夜が近づいていたことに気が付く。
 父の視線を辿っていくと、スクリーンがあった。今までアンケートを答えていた、白と黒を基調とした、落ち着いた色のウェブサイトがあるはずだった。
 赤と青と緑の、モザイクが画面いっぱいに広がっている。
 それが少しずつ変化して、蠢いているように見えた。
「えっ」
 と零した瞬間それは消え、スクリーンにはもう何も映っていなかった。


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。