見出し画像

07. 芋虫猫

 芋虫猫というものがある。
 その名の通り猫なのだが、胴が通常の三倍くらいあって、足が六本ある。これが尺をとるように動く。だからシャクトリネコとか、CC(キャタピラーキャット)と呼ばれることもある。
 未確認動物の中でも、芋虫猫はかなり人気がある。
 小学校では恐らくクラスに数人が、確実にその話を知っている。高校生になるとさすがに存在を信じる者は少なくなるが、大多数は話を聞いたことがあるはずだ。そのくらい、よく知られた怪異なのだ。
 なぜかはわからないが、芋虫猫について尋ねる相手によって、語られる性質が異なる。
 年若い子どもたちにとって、ネコは心安い相手である。
 毛は柔らかく長く、親切で、友人になれる可能性を十分に含んでいる。言葉を理解し、こちらが困っていると、問題の解決に手を貸してくれる。
 ただし、彼らにはめったに会うことができない。
 プレイグラウンドのない公園、あるいは荒れ地にしか生息しないので、子どもだけでは訪れることがないからだ。運が良く出会えるとしたら、それは子どもが一人でいる非常事態、すなわち迷子である場合しかない。だから多くの場合において、芋虫猫は子どもを親元へ送り届けてくれる親切な道先案内人として語られる。
 これが思春期から青年期を対象に聞き取りを行うと、様相ががらりと変わる。
 芋虫猫は夜の水路か、干潮にしか現れない。
 毛はなく、濡れている。水辺の生き物なので、皮膚は粘液に包まれていると言うものもある。多分に両生類的で、尾も確認できない事例がほとんどだそうだ。
 ではどうしてそれをネコと呼ぶかというと、夜道に目が光ること、そして毛玉を吐くことに由来する。
 毛玉というがそれ自身の毛ではなく、人毛の塊である。出会ったものに吐瀉をぶつけて、威嚇するのだ。
 こうした記述からもわかるように、青年たちは芋虫猫と親しくは成り得ない。
 面白いのは、話者が青年期に分類される年齢である場合、実際にこれに会ったという人物が、ほぼ確実に身近にいるという点だ。
 幼児が語り部である場合の、友人の友人といった間接的な経験談ではない。
 家族であったり友人であったり、近しい間柄の人物から、具体的な話を聞くのである。そして一様に(話者自身が体験談を信じていなくても)、怪異の体験者には絶対の信頼を置いている。
 そしてこれは付け加えるべきことだが、全ての話が最短で数ヶ月以上、過去の出来事であるのも特徴と言えよう。
 よって全員が現在、芋虫猫と遭遇した人物と頻繁に交流がない。
 彼らの別離に不自然な理由はなく、言うならば過ぎる年月が原因である。相手が亡くなっている場合でも、死因にネコが関係しそうな疑わしい点はないのだ。
 情報元とは会おうと思えばできなくはない交流距離だから、再会後に再び芋虫猫の話題に触れた例もいくつかある。
 すると奇妙なことに、記憶に食い違いが生まれるという。
 子どもの頃の思い出として語るに、それは人懐こい妖精じみた生き物であるはずなのに(あるいはそう考えていたのに違った、という話になるはずが)、どれも一様に「青年たちが認識するおどろおどろしいネコ」の怪談となるのである。そんなはずはない、と突き詰めていくと、話中の自分が「成年の視線」を持っていることに気がつく。
 全く別の話では、話者は楽しい幼年の体験を話していたつもりであった。
 ネコと遊んだ話に、好意的な相槌を打たれた記憶がある。ところが聞き手にはそれがなく、ただ薄気味の悪い芋虫猫の話を、知らされた事実だけを覚えているのだ。
 なんとも掴みどころのない話である。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。