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32. 三角

 散歩をしていて、目の前の少女の髪に目が留まった。
 暗い茶は別段珍しい色ではないのだが、妙に心惹かれる美しさだった。
 腕を下ろして肘くらいの長さもあるロングヘアは、毛先がまっすぐに切り落とされている。歩調に合わせてそれが左右に揺れた。窓際のカーテンを連想させる、なめらかで一体感のある動き。
 ついふらふらと、彼女の後ろをついて数ブロック歩いた。
 少女には老婆が付き添っている。
 保護者は振り返ることはしなかったが、明らかに後方のわたしを気にしていた。こぼれ聞こえる会話から、この老婆は肉親ではなく、シャペロンであるとわかった。なるほど、背筋の伸びた歩き方が、マナーの良さを感じさせる。
 少女は保母が必要なほど幼くはない。どんなに下に見積もっても、中学生にはなっている。
 付き添いがいるのだ、良家の子なのかもしれない。見るからにおっとりしているので、心配した親が連れ歩かせているのだろうか。
 そんなことを想像しつつ、同時にどうでも良いことだとも思う。ただ、無心にその頭を眺めるのが楽しいのだ。
 あわよくば、あの髪を手にとってみたい。
 そのうちどうにも衝動を抑えきれなくなって、鍵につけているキーホルダーのサバイバルナイフを取り出し、おもむろに彼女の髪をひと房、掴んで切り落としてしまった。
 傷害事件である。
 手の中でばらけた髪の毛は手のひらに刺すような不快な感覚で、慌てて振り払うと、風に飛ばされてどこかへ消えた。
 だからといって、起こしてしまった犯罪は消えないのである。
 ナイフを手に蒼白になったわたしに対し、老婆はこわばった顔に震える身体を精一杯奮い立たせて、必死に少女を庇っていた。
 当の被害者は現状をうまく把握できていない表情で、切り落とされた右側の髪を見下ろしていた。怯えた様子はない。ややあって「あら」と加害者に微笑みかけたのがかえって恐ろしく、わたしはナイフを持った手で思わず自分の顔を庇った。
 耳という部位は不便なもので、開きっぱなしだから聞きたくなくても音を拾う。
 いつ通報されるのかと怯え、けれど逃げる度胸もなくそこに立ち尽くしているのだが、一向に相手に行動を起こす様子がない。恐る恐る目を向けてみると、少女は心配そうにわたしを見ていた。
「大丈夫ですか? 気分が悪いのですか?」
 などと尋ねてくる。
 一瞬、全てが白昼夢であったのかと勘違いしそうになった。
 近づこうとした少女は背後の保護者に引っ張り戻され、頭はざんばらである。わたしの手のひらには、開いた刃が鈍く光っていた。
 少し落ち着いたわたしはサバイバルナイフのついた鍵を道路に落とし、距離を置いたまま女性二人に謝罪した。精一杯の誠意の証に、警察を呼ぼうと自分のスマホを差し出すと、体裁を立て直した老婆が意外なほど静かに、首を振ってこれを止めるのである。
 少女は始終にこやかに、目を細めていた。
 髪を切ったことは、不問とされた。
 幸い目撃者もないので、通報は被害者の都合から、断らせてほしいという。そういわれてしまうと、わたしの方が納得できない。後日問題になっては困るからと食い下がると、二人は困った顔で(違う。困った顔だったのは老婆だけだ)少し相談をしたあと、事情を話してくれた。
 少女が生まれた時に、占い師が言ったことらしい。
 この子は人生で三回、不可解な状況下で身体の一部を奪われる。その場所を記録しておいて、三か所の中心地に腰を落ち着けよ。その後は幸福が訪れるはずだ。
 かいつまんで説明すると、そんな予言であるらしかった。
 そして今回がその、二回目であるらしい。
 加害者を罰してはならないとの指示なので、もしも不安が残るのであれば、弁護士に書類を作らせると老婆は言った。即座に法的代理人を置くなんて、住んでいる世界が違う。対応に焦ったわたしは両手を上げ、それを固辞した。少女はこちらを見ておかしそうに笑う。
 ちなみに、一度目は幼児の頃だったらしい。
 リージェンツパークの動物園で知らない女に、突如爪を切られたという。それから両親は、娘に人をつけることにしたらしい。予言では危害が及ばないそうだが、その事件が思いの外両親にとって恐ろしい記憶として残ったので、万が一を考えての選択だそうだ。
 まず第一に出生で占い師を呼ぶという時点で理解が出来ず、わたしは少女の語りを半信半疑で聞いていた。
 すべてを虚実とするには、説明のつかない衝動を実感していたし、無邪気になんでも白状する少女を見るに、多分本当の事なのだろうとは思った。老婆は我々の会話を遮りはしなかったものの渋い顔で、物言いたげな視線をわたしに送っていた。
 その時は奇妙な体験をした、くらいに思っていたのだが、後日になって思い出すと、だんだんと怖くなった。
 似た年頃の少女が傷害・殺人に巻き込まれたとニュースを聞くと、背筋にうすら寒いものを感じる。考えすぎかもしれない。たまたま、中心になるかもしれないある地点に、有名なものがあっただけなのだろう。
 ロンドン市内には、意外にも墓所が多いのである。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。