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88. 手の中の小鳥通りへ、ボールペンを片手に

 いったい、ロンドンには壁の落書きがとても多い。
 壁に缶入りスプレー塗料で描いた名前や絵を、グラフィティと呼ぶのである。パブリックアートの一種だ。イギリスはかのバンクシーの本拠地であるから、軽犯罪に当たるこの行為も、寛容に受け入れられているきらいがある。
 手の中の小鳥通りは、ちょっと変わったグラフィティがあることで有名だ。
 絵ではなく文字である。それも、名前などをデザイン化したものではなく、ただの書き文字だ。誰が何を書くのも自由なので、様々なひとの手による。
 漆喰で平らにされた壁一面に、訪れたひとが一筆残していくのである。美術館や旅館に置いてある、記帳のような感じで。大きく一言であることもあれば、小さくびっしりの場合もある。
 この通りはオーバーグラウンドの駅前通りから、ひとつ小道を入った所にある。
 商店はなく、いくつかの個人宅の入り口と、表のレストランの裏口がある限りだ。通行人などほとんどないので気兼ねなく時間をかけて、この壁の作者の一人にも、閲覧者にもなれるのだ。
 僕は読む専門だった。
 学校で噂を聞いて初めて訪れたときは、正直こんなもの作品と呼ぶのは烏滸がましい、と思った。
 元々、グラフィティを僕はアートとして認められない。それを更に言葉という、生々しい感情表現で「彩っている」。全ての芸術が美しいと愛でるものではないことはわかっているが、それでもこれはいささか直接的すぎてはしたない。
 そうは思ったのだが、家に帰って数日経っても何かが気になる。なにか見落としたものがある気がして、何度か通ううちにいつの間にか常連客になっていた。
 基本的に壁の文字は増える一方、移動するなどありえない。だから今では、古いものならどこに何が書いてあるのか、わかる程度の精通ぶりとなってしまった。
 手の中の小鳥通りのグラフィティは漆喰の塗られた場所のみに限られる。レストランを除いて家の壁には、手を付けてはいけないという暗黙のルールがある(そうはいっても、無法者が窓ガラスにいたずらをした跡がいくつもあるのは恥ずべきことだが)。白いキャンバスは高さ三メートルほどまであって、ちゃんとそこにもなにか買いてある。
 上部には、通りのゴミコンテナーに登って書いているらしい。作者と同じ目線を合わせなければ読めない小さな文字もあるが、そこまでして読む気が僕にはない。けれど聞いた話では、レストランの裏口で頼めば、脚立を貸してくれるということだ。
 僕を魅了して止まないのは、二メートル弱の高さにある、同じ筆跡の文字たちだ。
 たぶん、自分よりも少し背が低いひとが書いたものだと思う。ほとんどが屈まなくても、つま先立ちにならなくても、自然と読める位置にある。
 物語である。
 メイダヒル駅に雨の日にだけ現れるヘドロの幽霊の話とか、無作為に並ぶ青い街灯の通りの話とか、ハムステッド・ヒースの湖で泳ぐと、B型は必ず左手に怪我をする話だとか。多くのものに地名が入っているので、知っている場所なら思い出しながら、それを読む。
 どれもここ以外で聞いたことがない。創作だろうと思われる。
 と思えば、唐突に迷信の覚書のようなものもある。
 浜に穴の開いた石を見つけたら、それを南東の枝に吊るすべし。こういうものには固有名詞がない。どこの地方の習慣なのか、ヒントとなるものがまるでない。
 またあるいは、何に分類されるのか、わからない文章もある。
 例えば、「首が外れる。あまりに自然に外れるので、もうそれで普通であったように錯覚するほど」と脈絡なく始まって、唐突に終わるもの。日記のようにも読め、しかし内容は尋常ではない。
 丸っこくて小文字のEに癖があるこれは、明らかに女性の手である。ペンが掠れた具合から、左利きであるようだ。
 恐らく”作家”の中でも最も多作である彼女は、頻繁に執筆に勤しんでいる。壁は先着順で自由に書き込んでいくので、順番に作品を並べることはできない。あちこちに点在する文章は、しかも筆圧が弱いので、探しにくかった。
 だからこそ新作が見つかると嬉しく、近くを通ればつい、この通りへ足を向けてしまう。
 ある時、何度も読み直したお気に入りに目を通したら、終止符の後に別の色のペンで『面白い?』と書き足されていた。筆跡は同じである。
 『面白かったよ』と凸凹の壁に無理やりボールペンで感想を残し、数日後そわそわしながら覗いてみると、返事が増えていた。
 それから、新しい話があるとその横に、一言添えるようになった。
 SNSに慣れた身としては、何かに返信するのはもはや日常だ。けれど、現実で消去も変更も出来ない文章を記すのには気合がいる。この壁一面に書かれた言葉の全てに同じ重圧はなかろうが、思いが込められているものもある、と思うと、急に存在が大きく見えるから不思議だ。
『僕は七日目の玉子の話も好きだったよ』
 ある時、玉子がテーマの話を読んだ後、僕はそう書き込んだ。七日目の玉子は、もう何十回読み直したかわからない、僕のお気に入りだ。
 その日の玉子話はレストランの壁の、やや低めの位置を陣取っていた。
 近くにあるゴミ箱が邪魔だったが、雨天の折、触って濡れるのは躊躇われたので、無理やり身体をねじってコメントを書き付ける。
 手を入れないという選択はない。次にいつ来れるのかわからないし、感動は受けたその時表現するのが、正しいと信じている。再読したときは、また感想が変わっているかもしれないから。
 最後の一文字を書き終えて、立ち上がろうとしたちょうどその時、左に持っていた傘が、風に煽られて飛びそうになった。
 雨具はなんとか無事だったが、バランスを崩し、とっさに壁に手をついた。
 ジーンズの裾が少し濡れた。カバンにしまいかけのボールペンは無事だったので、ほっとしてふと、手を置いた場所を見たのである。
『大丈夫?』
 そう書かれていた。
 一瞬前までは、何もなかった。漆喰を塗ったレンガの上に、薄墨のその文字は、手をつくまで存在しなかったと断言できる。
 僕の人生で唯一起こった、ちょっとだけ不思議な話。


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。