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11.七つのグリモアと呼ばれるもの

 わたしには、現実ではない記憶がある。
 住んでいた隠れ里に、たくさんのヒトがやってきて村人を虐殺する記憶だ。
 わたしは小さくてやせっぽっちの、切り髪にもなっていない男の子だった。
 この村では、病気などで死にやすい幼児は、まだこの世のものに成りきっていないという考えで、七歳になるまで髪の毛を伸ばさなければならない風習があった。正確には刀を使って身体の一部を切ってはいけなかった。爪なども、伸びてきたら噛んで短くするのだ。
 年齢はよく覚えていないが、基礎学習を始めて、村の常識がだいぶわかるようになった頃だ。
 わたしは村の中でも中流家庭の二番目の子で、上には姉がいた。
 村には学校はなく、姉さまや兄さまと呼ばれる、年上の異性の個人教師がつく。わたしの姉さまは村で最年長の老婆だった。
 恐らく熱帯雨林か、それに近い気候にある居住区であったので、それぞれの家が丸太小屋と呼ぶのもおこごましい簡素な住居ばかりのところで、わたしの姉さまは石を積んだ穴倉の中で暮らしていた。
 窓は一切ない。けれど姉さまのまぶたは糸で開かないよう縫いつけられていたので、暗闇でも何の不自由もなく生活ができた。
 姉さまに習ったことを、わたしはよく覚えていない。
 記憶の中で姉さまはわたしの手を取り、ひとつずつ不思議な文字を教えてくれたのだが、それをどうやって習ったのか、わからない。手のひらに指でなぞるというわけでも、何か別の方法で字を見せてくれるわけでもなかったのは確かだ。教師役は目が見えない。その学習法を、わたしは思い出せない。
 大量殺戮の回顧は、唐突に始まる。
 敵がだれで、どこからきてどうしてこんなことをするのか、わたしは知らない。
 多分眠っていたところを、父に抱かれて連れ出されたのだ。落ち葉の上に投げ出されて目が覚めると、まず家を燃やす炎に視線を奪われた。
 全てが燃えている。茜色の煙が濃紺の空に立ち上って、あたりは煙く、周囲を見通せない。地面に人が倒れていて、血の生臭さに、草いきれの匂いが混ざっていたのが妙な感じだった。
 殺戮者の姿はわからなかった。
 全員が、黒い影のようだった。たぶん、タールか何かで全身を塗りつぶしていたのだろうと思われる。金属らしい防具の形が、獣の爪や角を連想させて怖かった。
 すぐ斜め後ろに重たいものが崩れ落ちる音を聞いた。それが父だった。
 後頭部がぱっくりと割られていて、倒れた拍子に背骨から濁った液が吹き出たのを見た。わたしにはそれが、なにかいやらしい不潔なものに思えた。
 それを共同管理していた村の皆が亡くなったので、枷から放たれた七つのグリモアは、最後の生き残りであるわたしの元へ集った。
 ところで、それらのものは、その時は「グリモア」というものではなかった。
 老姉さまに教わった文字の中で、それそのものを表し、決して書いても口にしてもならないものがあって、それが彼らだったのだ。わたしはそれを知っていたのだが、現在知っている言語に相当するものがなく、なんとなく思いついた言葉が「グリモア」だったので、以後彼らをそう呼ぶ。
 グリモアたちが最初にしたのは、自らの目をくりぬくことだった。
 わたしがそれらに、ひどく怯えたからだ。
 いくつかは、わたしを不敬と罵った。彼らの目が恐ろしいのだったら、人間の方が目を瞑るべきなのだと。そういう連中の目は、黙って別のグリモアが抉り出した。不満があろうがなんだろうが、村人は彼らに対して常に上位なのだ。
 その間も、外界の敵は血族を根絶やしにしようと、わたしに襲い掛かってきた。その時手すきのグリモアたちが、頭を吹き飛ばしたり、手足を引きちぎるなどして、彼らをいたぶって排除していった。
 やがて朝日が登るころには、殺戮者たちは殲滅されて、地には誰も立っていなかった。村の家は焼かれ、残されたものも内臓や汚物にまみれている。おおよそ、ひとが住める場所ではなかった。
 わたしには旅立つほかに、選択肢は残されていなかった。
 七つのグリモアを引き連れて、わたしはとにかく人里へ向かって歩いた。ただ血筋で残ったのがわたしだけという理由で、彼らは大人しくついてきた。
 今になって思うと、早く契約を交わすべきだったのだ。だが、わたしはひどく混乱していたし、家族一等を失った悲しさで、それどころではなかった。
 だから、一行が通り過ぎた道の後ろが、どうなっているか、ずっと後になるまで気が付けなかった。
 道中で覚えているのは、熱帯雨林内を流れる河のことだけだ。
 空高くそびえる木々が鬱蒼と生い茂る森の、地面が水で沈んでいる。溜まって淀んでいるところもあるが、広がったところでは水の流れがはっきりと見て取れた。水は透き通り、しかし赤茶けて黒かった。
 最初、わたしは裸足で水の中を歩いていたはずなのだが、いつのまにかグリモアのひとつに抱かれて移動していた。
 そのグリモアは最も背が高く、そしてもっとも整った顔をしていたので、さほど恐怖心に煽られずに済んだ。自然と、世話はそれが行うようになった。
 背後に追従するグリモアの中には、わたしへ不愉快な視線をーー目玉もないくせにーー投げかけるものが少なくなかった。たぶん連中の不満や不平が垂れ流れて、森を汚染したのだろう。けれどまだわたしはそれを、村の外の知らない、けれどありきたりな風景であるのだろうと思い込んでいた。
 岸にまばらに茂る、根を長く伸ばし立ち上がった木の枝という枝が、生きたまま黒く炭化し、あるいはまだ燃え続け、赤い火を葉のように茂らせていた。水面のぎりぎりまで落ちた、燃え盛る梢の熱により、河からは蒸気が緩く立ち上り、霧のように視界を曇らせているのが、奇妙であった。
 じっとりと熱い炎の木々を抜けると、唐突に赤い土の平野へ出た。
 まばらに生えてるブッシュの影を踏んで進んでも、大地の熱で皮膚が焼きただれてしまいそうだった。揺らめく陽炎に暈けた地平線の上、小さな黒いしみがヒトの済む村だと、背の高いグリモアは教えてくれた。
 厳しい道中で、美しいグリモアだけがわたしに優しく、声をかけ続けてくれた。ひょっとしたらそれは、悪魔の作戦であったのかもしれない。けれど幼いわたしにとって、目に見えることだけが真実であり、全てであった。
 わたしは心を許した彼女を、つい姉さまと呼んでしまったのだ。
 そのときまで、彼らの誰も、名前を持っていなかった。呼ばれたことで、彼女はわたしの姉となった。七つの平等だったグリモアに、ひとつ頭が突き抜けた。
 その瞬間、本当に瞬きするほど一瞬のうちに、美しいグリモアはすぐ傍にいたグリモアの、頭を食いちぎっていた。
 激しい抵抗、あるいは全くの無抵抗の果てに、六つのグリモアは姉に片づけられた。肉片とむせ返るような血の海の中に佇んで、わたしはただじっと、それを見ていた。灼熱の中、まるで冷水を浴びせられた気分で。
 巨体は人間の女性ほどに、美しさはそのままで、グリモアはわたしの前に跪いて姉の名前を与えて欲しいと乞うた。
 姉だけでは足りない。名前に宿る想いを得たいと懇願した。
 そうすればわたしに永遠の忠誠と、変わらぬ愛を誓うと言った。
 絹のように滑らかな頬の上を、はらはらと滑り落ちるその涙に、嘘はないように思えた。わたしは思わず手を伸ばし、その涙を親指でつまんで払った。
 その後を覚えていない。
 結局わたしは彼女に姉の名前を授けたのか、否か。与えた名前は、なんだったか。どうしても、思い出せない。
 だからなのか、現在のわたしは、グリモアを持っていない。
 村の名前を探しても、この世界の地図のどこにも、そんな場所は存在しない。
 失われてしまったのか、それとも元々なかったのか。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。