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42. 寿

 何が良くなかったのかわからないけれど、多分食あたりだと思う。突然の吐き気と頭痛に耐えられなくて、緊急外来へ行った。
 いつも通りのことながら、A&Eは混んでいた。夕方から体調を崩したものは緊急外来しか頼るところがないのでこれは言うまでもないが、今日はスクールバスの事故があったとかで、特に隣の小児科は悲惨なことになっていた。
 子どもの甲高い泣き叫ぶ声と、大音量のアニメ曲の合奏を聞いて四時間ほどしたところで、また急に気分が良くなった。魔法にかかったみたいに唐突に、頭痛が消えたのだ。薬どころか、水さえ一滴も飲んでいなかったのに。
 それから三十分ほど待ったけれど、到着時に緊急度を割り振る簡易診察を以って後になんの音沙汰もなかったので、待っていても無駄だと判断して帰った。一応、看護師には一言断りを入れたけれど、厭な顔をされただけだった。
 人体の自己治癒能力に感心しながら、すっかり日付の変わった夜の街を歩いた。
 ひっきりなしに人が通る賑やかな病院裏の緊急出入口を搔い潜り、大通りに出る。パブでも他国に比べて比較的早くに閉店してしまうので、小さなコンビニスーパーくらいしか開いていない。けれど並ぶ大看板は明るいし、歩道は広くて影になる場所は少ないから、さして警戒せず歩くことができる。地下道で環状線を渡れば、自宅のある住宅地へはすぐだ。
 それでも本来なら、夜遅くロンドンを歩くのはお勧めできない。
 老若男女問わず、危険は多い。ことに個人宅が多い地区は人気が消えてしまうから、車上荒らしが発生しやすい。現場を見つかって、強盗殺傷事件に発展することさえある。
 そのためこの国には、至るところに監視カメラがある。それこそ、プライバシーの侵害を不安に感じる数だ。気楽な人間だと、それだけで安心してしまうようなのだが、しかしどんなに路上カメラがあったところで、犯罪を回避できるわけではない。録画は何かが起こった時に、事件を見返すためのものなのだから。
 ただ、最近僕の家の近所で大がかりな麻薬取締があったのだ。
 僕の部屋は、昔の公営団地が払い下げられた建物の一つにある。中はリフォームされているけれど、築古だから外見からは鄙びた印象を与える。それが周囲、四ブロックほどに広がる。緑も多いので、僕なんかは落ち着いて良い場所を借りれたと満足していた。
 ところがそういう場所は、隠れ家にもちょうど良いらしい。
 この棟ではないのだけれど、壁をぶち抜いていくつかの部屋を大部屋とし、大麻を栽培していたところがあったそうだ。集団的な犯行らしい。それぞれ玄関を設置してカモフラージュしていたのだけれど、偶然巡回していた警官が人の出入りに違和感を抱いて、そこから発覚した。
 そんなわけでこの数日間、パトカーを見かける回数が多い。
 さらに偽装した警官も見張っているはずなので、職質されるくらいなら逆に安全だと高を括って、夜の散歩と洒落こんだ次第だ。
 庭木がうっそうとした一軒家の並びを抜け、教会の前へ出る。
 この教会は小学校が併設されているので、建物の周囲にある花壇を以って内側には、黒くて高い鉄柵で覆われて入れない。別に用事はないから、その周辺の芝があるなだらかな下り坂より、近づいてみたことはなかった。
 芝の外側には歩道があって、緑の上を歩いても良いことになっている。実際、砂利の敷き詰められた小道をよく、犬が散歩しているのを見かける。ここは教会の敷地内だが、地域の交流の場として普段から開放されているのだ。週末イベントでは、テントが立てられたりもする。
 広場の前には小さなカフェがある。
 協会の所属で、営業はチャリティの一環であるらしい。カフェとしては野暮ったいが、肩肘張らないところが良いのか、天気が良い日は外に席を出して、日付時間に関係なくいつも地元民がのんびりとお茶を楽しんでいる。
 今夜は芝の上に、丸テーブルが置かれていた。
 テーブルとイスは普段カフェに使っているものと高さ形は似ているが、どちらも布に覆われてめかしこんでいる。クリスタルのグラスに、銀の食器。いくつかは準備の途中か、セットが揃っていない。装飾はどれも白く、布には金糸のふちどりがあって、月明りに煌めいていた。
 クロスの所々に、泥の付いた手で擦った跡がある。
 少し向こうの、金色に塗られた教会の正門には、たっぷりしたリボンと花が飾られている。遠目に見ても、非常に豪奢な飾りだった。
 観音開きに見通せるはずの教会の中は暗く、カフェも同様に中の様子は伺えない。普段ならあるはずの近隣の街の明かりも灯されておらず、あるのはろうそくランプだけ。それが教会の入口から、芝への砂利道へぽつぽつと置かれていた。
 それのことは小耳にはさんだことがあったので、何が起こっているのかはすぐにわかった。
 道理で、とこれまで通った街の中に人がいなかった理由に納得し、さっさと家路に着いた。
 それに出会ってしまうと連れて行かれるとか不幸になるとか言われているようだけれど、今の所は何も起こっていない。
 あの腹痛は、呼ばれていたのだろう。悪い病気じゃなかったのなら何よりだ。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。