見出し画像

22.ある日の地下鉄駅

 僕は幼い頃、駅でテロに巻き込まれたことがある。
 それなりの大事件だったから、多分覚えている人もいるだろう。イギリス鉄道、空港へのエクスプレスもある駅で、ちょうど昼頃の出来事だったから、かなりの被害者が出たらしい。
 僕は母とバース行きの電車に乗るところだった。
 子どもと二人旅に慣れていない母は、予定よりも早めの行動を心掛けていたので、駅に付いたのは運行よりも一時間近く早かった。車体はすでに予定の線路にあったが、駅員の話ではこれは到着したところで、これから清掃したり仕度を整えて、二十分前から搭乗できるという。
 母と一緒に駅内を散歩して、時間を潰した。
 案内掲示板のある開かれたところに、大きなクリスマスツリーがあった。
 紫色のティンセルがたっぷり巻かれていた。銀のシンプルな、しかし大きいオーナメントが程よく飾り付けられていて、時々キラキラと光を反射させていたのを覚えている。道行く人々が、そういう時目を細めて通り過ぎていた。
 そして時間が来て、一番乗りでコーチへ上がった。
 席は全て前向きで二席ずつ、左右にある真ん中に通路があった。確か、進行方向へ右側のシートだったと思う。多分そんなに良いチケットではなかったのだろうけれど、その時の僕には立派な場所に見えて、買ってもらったばかりのホットチョコレートを自分専用のカップホールダーに設置し、ちょっと得意になっていた。
 僕は発車を心待ちに、窓から見える線路を眺めていたので、構内で起きたその爆発の瞬間は目撃しなかった。
 爆発音と共に振動が乗客を襲って、すぐに誰かが「爆弾だ」と叫んだ。
 振り向くと、乗り場がある左側は昼間だと言うのに真っ暗で、内から外から、叫び声が上がっていた。煙の中を、人が走っていく。その顔面に赤いシミが見えたと思ったら、母の手が僕の視界を覆った。
 僕たち親子は結局、ずっと後になって消防隊員が救助にくるまで、その席から動かなかった。
 結果としてそれは正しい判断であったのだが、母はそこまで考えていたわけではなく、恐怖で身体が言うことを利かなかっただけで、けれども息子だけは守らなければと、腕にしっかり僕を抱きしめていたのだそうだ。
 母に保護されて僕は、混乱して叫ぶ人々を見ていた。
 入り口は開いていたので、少し煙が入り込んできた車内は恐慌状態だった。慌てて逃げ出そうとする人が入り口に殺到し、イスを踏み越えて他人の上へ飛び降りる男があり、誰かが押しのけて頭をぶつけた老婦人が、通路に倒れるなどしていた。
 詳しく現状を知ろうと、僕は母の腕の中でもがいた。そしてその度に、服を手繰り寄せられて、その胸に引き戻されるのだった。
 誰もが我先にと逃げ出そうとしているのに、車内から一向に居なくならない人々を、僕は不思議に思った。
 まるで、逃げ出したかと思ったら、ビデオの逆再生をして席に戻り、また別の出口を探して慌てふためいているようだった。
 駅の中に充満する黒い霧の中、時々人影が窓の外を通り過ぎた。
 後に母は体験について、「阿鼻叫喚が恐ろしくて」と語るのに、今思い出すと、僕にはほとんど叫び声は聞こえてこなかった。むしろ静寂に耳が痛い、と感じたことがあったので、ひょっとしたら爆発音に耳を傷めていたのかもしれない。不審物があったのは別の車線だからかなり距離があったはずなので、おかしな話ではあるけれど。
 異常はあれど、車外の避難者はゆっくりと移動していた。だから僕は、本当は大したことではないのだな、と落ち着いていられたのだ。
 ガラス越しの人々は、行列を作って歩いていた。
 左の方向へ動いていると思ったら、いつの間にか反対へ向かうのだった。避難場所を間違えたのかな、と僕はおかしくて笑ってしまい、それを母が何と勘違いしたのか、更に手に力を入れてわたしを抑えた。
 もちろん、行儀正しい人々だけではなく、その列を乱して手を振り回し、踊るように右往左往する姿もあった。そうした人はたいてい、身体が焦げていたり、酷い怪我で身体を欠損していたりした。
 そして身体のあちこちが、輝いていた。
 煌びやかに、そして目に眩しいほどカラフルに。
 母はその奇妙な光景を見ていない。始終、目をつむって震えていた。
 その間一貫して僕は何も考えてはいなかったが、大事なホットチョコレートのカップが、床に落ちて台無しになっているのに気が付いた時は、とても悲しかった。
 最終的に、爆発物そのもので亡くなったのは三人。火事と薬品を含む煙のため、中毒と事故で亡くなったのは十一人くらいだったと聞いている。
 重軽傷者は百人を超えた。その中で僕たちは、かすり傷程度で済んだのだった。
 母はその後少し不安定になったようだけれど、今では問題なく電車に乗れるし、あの時のことは思い出になりつつある。
 僕は特にトラウマもなく、平凡な人生を送っている。


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。