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23.ワールドエンド1

「探偵って、何故こんなに謎の解明に手間がかかるのかしら」
 図書館で借りてきた本から顔を上げて、サーシャが口を尖らせた。きっとまた皆死んでしまうわ、と不平を言う仕草が、彼女を実年齢よりもぐっと幼く見せる。
 クリスマス休暇に入ったこの専門学校生は、元は魔女の見習いという出身である。
 肉親はなく、友人と呼べる同級生もなく、人間社会に疎いので、クリスマスをどう過ごすかがわからない。休みの課題を早々に終わらせ、明後日の聖夜を控えて手持無沙汰にしていたのだ。
 それを見かねた同居人が、安価で手頃なエンターテイメントとして、図書館という存在を彼女に教えた。アパートの横にある水路に架かる橋を渡って通りふたつ行ったところに小さな地域書架施設があることに、彼はずっと興味を持っていたが、少女は知りもしなかった。
 早速二人で訪れ、古い修道院を改装したらしいガラスの分厚いステンドグラスに、揃ってちょっと感動した。
 壁と平行して狭苦しく並ぶ棚には、ぎっちりと古今様々な本が保管されている。
 被服系専門学生だから、とりあえず目についたニッティング本を二冊(クリスマス特集で入り口にまとめて置いてあった)と、市民カードがないので、自分で借用することができない同居人の希望で探偵小説を三冊を借りた。
 どうしたことか、サーシャが昨晩から推理本を手に取って、現在二冊目に突入したところなのである。
 ジャンルが気に入ったのかと思えば、サーシャは小説に不満たらたらだ。
 同居人は愚痴を聞くのは構わないのだが、まだそれを読んでいないので、種明かしだけは止めてほしいとやきもきしている。読書ペースがゆっくりなので、まだ一冊目の途中だ。それも、ちょくちょくサーシャに邪魔される。
「犯人は、どうしてこう回りくどいことをするのかしら。こんなの、密室じゃないってすぐわかってしまうのに」
 それはそういう小説だからだ、と同居人は言わない。
 窓の外、朝から降り続く雨はそろそろ小降りになっている。
 ガラスについた水滴が外気の寒さを思わせて、彼は手元のぬるくなったチョコレートで唇を湿らせた。室内は暖かく、怠惰な休暇を過ごすのに、ちょうど良い薄暗さだ。
「窓の上に換気口があるじゃない。ネズミにでも化けて入ればいいんだし、コウモリなら飛べるわ。見ることができるなら、邪視でも呪いでも簡単に殺せるわよ」
 サーシャは現代っ子で、更に元魔女でもあるから、人間の常識が理解できないことが多い。
 創作に対する大部分において、口にする不服は彼女なりの遊びあるいは冗談だ。言う方も聞く方も、お互い承知の上で戯れているのである。多少は本心が混じっているとしても、サーシャは総じて、小説というものが気に入ったらしかった。
 それを語り合いたいのだろうが、趣味について語らう経験がないので、手探りしている状態なのだ。
 親と娘、ひょっとしたら孫ほども年の離れた少女に目を細め、同居人は、
「続きを読んでごらんよ」
 と読書の先を促す。
 ソファに寝そべったサーシャはちょっと頬を膨らませ、その仕草は三つ編みにした髪と相まってかなり幼く彼女を見せた。同居人は相手の不満に意見はせず、陣地争いに敗れて自分が追い出された長椅子のすぐ下、床に足を広げ手中の本へ目を落とす。
 しばらくして、話を読み進めたサーシャが「あら……」と呟いた。
 同居人はその本と同じ作家の物語を知っている。まだ科学捜査のない時代風景を好み、糸や針金を使ったトリックを得意とする作風だ。それに、推理小説の種明かしが本物の魔法だったら、読者は激怒するだろうし、探偵役は食いっぱぐれてしまう。
 サーシャはその後、速読もかくやという速度で小説を読み終えると、ちょっと息をついた。
「回りくどいわ」
「推理小説は知的な遊戯なんだ。それを楽しむためのものだから、現実とは違うよ」
 同居人は顔を上げて、子どもを宥める声で言う。
「あなたの世界でも?」
「どこの世界でもさ」
 同居人は幽霊である。
 何の因果か、不可侵なはずの世界線を跨ぎ、更に生きていた時代から数十年後の社会へ意識が跳んで、サーシャの地縛霊になっている。二人の縁が、絡まってしまったせいだった。
 と一応、そういうことにしてある。
 本当はどうしてなのか、はっきりとはわからない。とにかくこの幽霊が、サーシャ憑きになっているということだけ確実で、後はそういうことだろう、と話し合って決めたのだ。
 初期の頃は会話も出来ず、物を触れることもできなかった幽霊だが、現在はほとんど生きた人間と同じなので、ルームシェアと思ってこの生活を楽しんでいる。サーシャは家事や人間社会についての助言が受けられて助かるし、彼にしても何故か、母国ではなくイギリスに化けて出てしまって、それでも居付く場所があったのは幸運だった。
「もうすぐきっと、帰れると思うわ」
 そうサーシャがいうのは全く根拠のない勘からではあるが、そうだろうということは、幽霊自身にもわかっていた。時々元弟子の様子を見に来るサーシャの過保護な師匠が、同じようなことを言って慰めてくれたことがあるのだ。
 世界は平行に階層状とはって複数が同時に存在していて、下から上の階へ移動するのは難しいが、下へは例えサーシャのような不出来な見習いでも、どこまでも深く潜っていける。ただそれは、魔女のような世界の理解者が、各世界に安定した足場を作って滞在する場合に置いてのみである。
 人間がなんらかの理由で異世界へ迷い込んだら、遅かれ早かれ異物として弾かれてしまうのだ。その「遅かれ早かれ」は、どのようにその階層へ馴染むか、という点に尽きる。場に馴染めば馴染むだけ、異質さが浮き彫りとなり排除されてしまうのだ。特にこの同居人のように何故か幾段も上の階層へ、一般人には存在が認識出来ないほどのエラーを抱えていたケースでは、それが顕著であるらしい。
 魔女からは、前触れもなく現れた唐突さで、元の世界へ戻されるであろうと予言されている。
 同居人は幽霊なので、帰ったところで居場所はない。
 元の人生に固執はないのだ。逆にここの生活を、悪くないと思っている。だがそれが自然の摂理と言われれば、そういうものと受け入れるしかなかった。
 縁の糸が繋がっているから、元の場所へ帰還することはできるのだろう。しかし、そこでもすでに何十年も過ぎてしまっているのかもしれないし、またどこかにひっかかって、全然知らない場所に縛り付けられるかもしれない。
 床に手を置く。手のひらに、フローリングの木目が滑らかに滑る。だがまだ、寒暖の感覚は戻っていない。
 逐一報告しているわけではないが、どうもこの娘にはお見通しであるようである。床の感触を確かめている同居人を、サーシャはにやにやしながら見ている。
「今のうちにどこへでも観光しておきなさいよ、モモ」
 モモと呼ばれた幽霊は一瞬、眉間に皺を寄せる。
 共同生活で同居人に不満があるとするなら、サーシャが彼の名前を正しく言わないことだろう。うまく発音できないからと言い訳するが、正しくは覚えるつもりがない。コミュニケーションをとるようになる前から勝手につけていた愛称を気に入っていて、変えたくないのである。
 葛藤はあったが今ではそれを自分の称号として受け入れているモモだが、表情が変わらないと揶揄される顔で、精一杯口をへの字に曲げてみせた。
「お忘れかしれませんけどね。君の傍から離れられないのに、どうやって出かけろと」
「あら、じゃあ、散歩にでも行きましょうよ。ちょうど雪も降り始めたし」
 サーシャは読み終わり、閉じたり開いたりして弄んでいた本を投げ出して、跳ぶように起き上がった。
 視線で促された先、外はすっかり暗くなっている。小雨はいつのまにか、雪に変わっていたらしい。濡れたサッシや街路樹の枝にはまだ積もる気配がないが、それも時間の問題だろうと思われた。
 寒暖のわからないモモではあるが、生きていた間に培われた感性から、外出は正直面倒くさいと思った。しかしさっさと飲みかけのカップを片づけ、そのまま玄関へ向かいコートを着始めたサーシャを見ると、ここで愚図るのは年甲斐がない気がして、黙って後に従った。

「電車に乗るの?」
 買い物ついでのいつもの散歩コースではなく教会前の公園へ、更にそれを突っ切って大通りを躊躇いもなく進むサーシャに、モモは声を潜めて尋ねる。
 手ぶらの外出に油断していたが、どうもサーシャは遠出をするつもりであるらしい。モモは少女がポケットに突っ込んだ手で、財布につけた鈴を弄んでいるのでそれに気が付いた。当のサーシャはだんまりのまま、やけに楽しそうにかかとで土を蹴っている。
 前方には二車線の跨線橋があり、渡ったすぐ下に地下鉄の駅がある。
 ロンドンの地下鉄は、郊外になると地上に出始める。これより先になると逆に高架上に線路がある駅もあって、日本の地方都市でも近郊部で育ったモモにとって、これはとても奇妙なシステムであるように、初めは見えた。後になってニューヨークや東京もそうであったと思い出しても、やっぱりそれを地下鉄と呼ぶのはおかしい気がする。
 だからというわけではないのだが、モモはあまり電車に乗ったことがない。
 幽霊といっても浮遊できるわけではない。移動するなら相当の公共交通を利用しなければ動けないのだが、かつて誰の目にも触れず、周囲へ声をかけても返事のなかった頃に乗車した、あの時の疎外感を思い出すと、モモはなんとなく気後れしてしまうのだった。
 道行く人にはっきりと目視され避けられている現在でさえ、ひょっとしたら突然「なかった」頃へ戻ってしまうのではないか、という考えが離れない。
 サーシャはそういう、モモの言葉に含まれる不安に気が付かない。
 あるいは、気にしていないのかもしれない。魔女らしく、個人主義を極端にしたような「自分」と「他」以外の区分がないから、輪から外れる恐怖を持ったことがないのだ。どうも彼女は、多くの不明にわざと楽観的に対応するきらいがある。
 ちらちらと、雪は細かく降り続けている。
 駅への橋を渡るとき、何気なくモモが顔を上げると、反対側の歩道が目についた。
 もういつからになるのだろう。そこは橋の両側が「工事中」という看板の付いた金網で、閉鎖されて通行できないようにされている。
 鉄筋を組んだだけにも見える無骨な作りだ。床材も歪んで足場が悪い。通行禁止になった理由は、探偵じゃなくても簡単に推測できた。駅と橋を挟んで対角は電車の廃材置き場だから、交通に支障があまりなく、長年の放置で通路は雑草だらけになっている。
 そこを、何かを引きずって歩いているものがある。
 体高は二メートルはあるだろう。ほとんど四つ這いに見えるほど背を曲げて歩いているので、背筋を伸ばせばひょっとしたら、アーチの上部に頭が当たる程かもしれない。巨大な麻袋を全身に被り、頭部に乗せた何かが支えきれず包みの余白に落ちてふらついている、そういう感じだ。
 泥水を浴びせられたのか、ところどころが黒い土に覆われて、そこ以外はまばらな毛の強い獣の皮膚にも見える。下半身はここからではコンクリートのガードが邪魔で見えないが、足音からすると……。
「あまり見ない方が良いわ」
 サーシャはその方向へは目もくれないで、呟いた。
 歩きながらも橋の反対側を見入っていたモモは、我に返って顔を赤らめる。今となっては自分も人外の身でありながら、一向にそれに慣れないのである。
 いつもの間にか、麻袋の塊はこちらを向いていて、目の前の鉄筋を固定するボルトを引っ掻いている。厚い被膜に覆われても一瞥でわかる、鋭い爪で。
「悪いひとじゃないけど、機嫌が悪いと噛みつかれるわよ」
 サーシャの言葉が言葉通りなのか、比喩表現なのか、モモにはとっさに判断がつかない。小走りで、元魔女の後を追う。
 無言で駅の改札を通り、階段を下ってプラットフォームへ足を踏み入れる。
 線路がたくさん並んで見えているが、いくつかは国内電車とエキスプレス用、この駅を素通りするものだ。ふたつの地下鉄ラインだけがここを通過するが、前後いくつかの駅は共通で、ここでわざわざ乗り換えをする意味がない。上下線の真ん中に島があるだけ、いたって簡素な作りの駅である。屋根はホームの半分までしかないし、あっても雨風を防げるとは言い難い。
 そんな小さな駅でもそれなりに利用者はあるらしい。都心行きの線で待つ学生らしい団体が、いかにもクリスマスのパーティをしますという衣装に身を包み、すでに酔っぱらってはしゃいでいる。帽子だけならサンタが三人、トナカイは二人、それからちゃんと点滅するクリスマスツリー柄のジャンパーがひとり。
 同じ方向のサーシャはしかし、彼らを避けて迷わず屋根のないところまで行き、雪に濡れるのも構わず電車を待った。
 電光掲示板によると目当ての電車まで六分。しかし結局、遅滞によって計十三分の間、モモはサーシャが白い息を吐く姿を、黙りこくってぼんやり眺めていた。
 目を凝らしたら落ちてくる雪の結晶も見えそうな、闇の濃い夕方過ぎだ。
 ホームのうすぼんやりしたオレンジ色の電灯から、ようやく到着した白蛍光灯煌びやかな電車内へ移動し、目を瞬かせたモモは、
「どこに行くの?」
 と相方に尋ねた。
 電車の中は明るく、別の車両から聞こえる先ほどの一団の騒ぐ声で賑やかだが、思ったよりも空いている。空席はいくらでもあるのに立ち乗りする客が多く、サーシャとモモはドアのすぐ隣の二人席に腰をかけて、温かな空気に息をついた。
 すでに電車は、ふたつの駅を通過している。
「河よ。観光したいんでしょ」
 サーシャは出入口の上にある地図上、いくつの駅を通り過ぎるか数えるふりをした。
 彼女の通う被服学校は、ロンドンでも主要ターミナル駅の近くにある。現在乗っている電車でも行くことができるので、路線そのものは良く知っているのだ。
 けれども多くの魔女がそうであるように、電車のような金属の、大型の交通機関を好まないサーシャは、あまりこれを利用しない。大抵は一時間かけて徒歩で登校するし、どうしても時間がなければバスを使うことが多い。
 だからしばらく乗車していなかったので、クリスマス用の広告だらけになった地下鉄が、元魔女見習いには珍しいのである。特に煌びやかな衣装の写真は好むところで、目をきょろきょろと忙しくさせていた。
 モモはそこまで浮かれてはいない。前身は、地方都市の出身なのである。どこへ行くにも地下鉄もバスも大いに活用しなければならなかったので、季節のイベント毎の賑やかしには慣れていた。
 確かに宣伝チラシの色使いは、モモの感覚からは西洋的で一風変わってはいるけれど、三十年のブランクがあることを考慮にいれれば、そこまで劇的に「未来っぽい」とは思わない。
 ずいぶんリアルなイラストが多いのは不思議だが、それは機械で描いたものだと聞いている。しったかぶったサーシャが言う「AIに注文すると勝手に制作してくれる絵」という意味は、実はよくわからなかったが。
 ところで、電車はロンドンをぐるりと巡る路線である。
 河と言われてモモは自然と、かの有名なテイムズを考えていたのだが、東西へ長くロンドンを分断する運河だから、それだけでは目的地が特定できない。
 サーシャに詳しい位置を尋ねると、ブラックフライアーズ辺りが良いという。であれば、途中で乗り換えた方が早くなる可能性がある。
 けれど二回乗り換えてたった数分の違いだから、二人はほとんど話し合いもなしに、そのまま環状線に乗り続けることを選んだ。サーシャはその分駅広告が見られるし、モモは単純に面倒くさいので、異論はない。
 やがて、地下鉄駅に到着する。
 ひとつ前の駅で降りて、テイムズ・パスを散歩しようということになった。
 テイムズ河でも、タワーブリッジの上流、ロンドン橋にほど近いのである。観光名所が並ぶ上に、ほとんどシティと隣接している。運河沿いの遊歩道など、普段なら観光客と散歩者でごった返しているはずだが、雪の夕方ならばそこまででもないと、サーシャが押し切ったのでそうなった。
 クリスマス休暇中とはいえ、経済の中心地であるロンドンだ。そんなことはなかろうとモモは半信半疑だったが、実際、駅には駅員さえおらず、通りも閑散としていた。
「見えないなりに人間でも、やっぱり不穏を感じるのかもしれないわね」
 暗い小道を迷いなく進みながら、サーシャは軽い足取りで跳んで歩く。
 この辺には、古い時代に港があった。
 貿易船が大型化するにつれてその仕事は減っていったというが、恐らくは都市発展の初期であるローマ時代から、河の流れを見続けてきた波止場である。
 もちろん現在は影も形もなく、ただ引き潮の時にひっそりと、足場を支えていたであろう木材が現れる程度にしか残っていない。周囲の重要な建物も空襲などで大部分が失われては、知らずに前を通って古代記念物とわかる者など皆無だろう。
 だがしかし、土地には記憶が残るのだ。
 観光地と呼ばれる場所は多くの場合、歴史的な事件があったところでもある。
 そしてそれは、魔女とも関係が深い。正史に現れることはなくても、時代の為政者たちはなんらかの形で、魔術師たちと繋がりを持ってきたのだから。
 例えば大きな戦、社会を大きく変える出来事の裏に魔女があり、彼らの古魔術は大地に跡を残しやすく、やがてそれが溜まりとなって、新しい魔力の傍流となる。
 魔女が地脈と呼ぶものである。
 人間でいう気場だが、必ずしも陽極に働かない。水の循環に似て、植物への恵みとなることもあれば、洪水となって災害を招く恐れもあるのだ。
 テイムズは、正にそういう所なのである。
 河川敷の歩道へ出ると、水面は真っ暗だった。テイムズ・パスにも最小限の街灯しかなく、かつ河の幅が広いのだから、当たり前だろう。しかも現在は水位が低めであるらしいので、尚更だった。対岸にはビーチと呼ばれる砂地が、広い面積を人の目に晒している。
 元魔女が人がなさそうなところ、と言ったのでモモは全くの無人を覚悟していたが、ちらほらと遊歩道を散歩している人がある。
 河向こうの大きな美術館は煌々と白い明かりを惜しげもなく周囲へ投げかけていたし、手前の細い橋はところどころ紫が混ざる青色でライトアップされていて、見栄えがする。水流の上下には大きな橋がかかっており、車や電車、人々が遠くで怒鳴る声も聞こえる。幽霊には、十分繁華だった。
 ごく普通の観光客のように、モモはぼんやりと冬の光景を楽しんでいたのだが、サーシャはその肩を突き、わざとらしく水面を指さした。
 細かな雪は、そろそろ地面を覆い隠そうとしているらしい。
 手すりの形を丸く変えている向こうの川面にも、うっすらと白い雪が見て取れた。
 水は満潮ではないが、濁流はそれでもかなり急な動きをとっている。そこまで気温が低いということではない。そんな水面に雪というのはモモにはちょっと辻褄が合わない気がして、じっと目を細めて異常を確かめようとした。
 何かが浮いていて、そこに雪が積もっている。
 かなりの量である。大量の何かが、急流をもろともせず、パトロールボートの飛沫にもびくともせず、そこに浮いている。迷彩柄のような、浮草のような。
「何、あれ」
 両手で庇を作ってそれを見ているモモを、下から覗き込むようにして、サーシャはいかにもおかしくて堪らないしたり顔だ。
 もっとも、幽霊を小馬鹿にしているつもりはないらしい。人見知りの彼女なりに同居人に慣れて、親愛の表現をしているつもりなのだ。幼少から育ててくれた、唯一人生で深く関係した大人である、サーシャのいい加減な師匠がこういう態度をとっていたので、無意識に真似しているのだろう。
「死体よ。あなた風にいうところの、死体の幽霊」
 かつて、テイムズでは何度かこのように、大量の死体が浮かぶ事変があったそうだ。
 戦であったり、大火であったり、あるいは伝染病などで、河へ落ちて死んだり、死んでから捨てられたり、時と場合によるが、死はしばしば、この悠久の流れを覆ってその存在を知らしめたのだった。
 この目の前の死体たちが、どの時代のものかはわからない。あるいは、全ての悲劇が混ざりあって、現在こういう形で現れているのかもしれなかった。
 それらはいつも運河に浮いているのだが、見たり触れたりすることは稀であるらしい。
 質量はないが、それがあったころの記憶が残っていて、そういうものの上には物質が乗ることがある。「雪ならきっと、積もってるだろうと思ったわ」と言って、サーシャはちょっと得意な顔をした。
「誰も騒がないなんて」
 モモが呆然としたのは、それに尽きるのだった。
 周囲の誰も、水面の怪奇に触れないのである。通り過ぎたカップルは、遠くに見えるイルミネーションを褒めたたえているというのに、テイムズ上にそれを再現する反射がおかしいことには全く気が付かない。よく見てみれば、水死体の形は明らかだというのに。
 サーシャはちょっと肩をすくめた。
「別に、それが普通だからじゃないと思うわ。実際のところ、わたしたちにもかなり珍しい現象なんだからね。ヒトの一般常識の外にあるものは、脳がその存在を認めないの。無視してしまうのよ」
 言われるまでもなく、モもはそれを、良く知っているのだった。
 幽霊となってすぐの頃、誰とも交流ができなかった経験がある。その時、どうしてなのか考えた。己の行動を顧みて、そして、しょうがないと諦めたのだ。
 以前の自分も、様子のおかしい人間が話しかけてきたら相手にしなかった。生きた人間であるホームレスでさえ、どこに何人いるか、気にせずに暮らしていた。仕方などないのだ。
 それが身に染みているモモは、でもやっぱりやるせない気がして、
「でも、死んでもまだ、ああしているなんて可哀そうだ」
 と口ごもった。
 サーシャは運河に浮かぶ幽霊たちに同情がないことは明らかだったが、目の前の同居人がしんみりしたのを察すると、慌てて首を振った。
 急な動きに、毛糸の帽子から緩く編んだ三つ編みがはみ出る。濃い小豆色の防寒具はサーシャが凍結防止のまじないをこめて作ったため雪も積もらないが、薄ぼんやりした茶色の髪には、早速雪が張り付いている。
「あのね、霊体があるところに留まっているのは、それを望む意思が介入するからだわ。他者の意思からだったからって、自分で曲げられないということは、絶対にない。時間はかかるかもしれないけれどね。魔術は万能ではないのよ」
「つまり?」
「彼らはああしていたいのよ。ああして少しだけ人を驚かして、ささやかな承認欲求を満足させているのかも」
 もちろん、水死体の幽霊たちに真意を尋ねることは出来ないので、その意見が正しいのかは不明だ。けれどモモはそれを聞いて眉根を顰めたので、サーシャは少し安心して、
「きっとそうよ」
 と強く頷いた。
 そうしてまた、二人でぶらぶらと歩き始める。
 地下鉄一駅分など、都心ではあまり距離がないものだ。先ほど河上流に見えた橋はそれ自体が鉄道駅で、もちろん乗り換えに良いように、地下鉄駅もほとんど隣接している。まして信号のない遊歩道のことだから、十分もしないで辿り着けるのだ。
 サーシャは口を閉じたまま小声で歌いながら、モモはそれが何の曲か思い出そうとしながら、ゆっくりと歩を進めた。テイムズに目を向ければ、相変わらず水面に、歪んだ水玉模様が揺れている。
 そこに、なにか白いものが流れてきた。
 気が付くと更にひとつ、ふたつと、大量の白いものが現れてくる。
 柔らかな丸みを帯びていて、楕円のような、ひし形のような、全ては曲線で出来ているけれど、どれひとつ同じ形の物がない。あるものが片翼を広げて浮いているのでやっと、それが何であるのかわかった。
 白鳥だ。
 十数、ひょっとしたら数十羽の大きな鳥たちが、濁流の中で息絶えている。
 長い首は重いらしく、沈んでほとんど確かめることができないが、どうやら外傷はないらしい。汚泥の流れに入て美しい純白の外見を保ち、白鳥たちは成すがままに海へと下っていく。
 モモはちょっと唖然とした。
 それが現実であることは、周囲の人間が騒ぎ出す気配でわかる。橋げたにひっかかったものを指さし、やたらと写真を撮っている通行人は、いかにも現代的な動揺の仕方であった。
 野生動物の大量死というのは時々ニュースになる。
 こうして目の前にしてみると、確かに異様な雰囲気に飲まれてさも由々しき事態に感じられ、何か手を打たなければと、他人ながら焦る気持ちになるのである。白鳥は、王室が管理していると聞いたことがある。連絡を取るならそこへだろうか。
 狼狽えるモモの背中を、サーシャがそっと押した。振り返ると、少女は無表情に、細く長く白い息を吐く。
「行きましょう」
 一言囁いて、駅へと急ぐ。訳もわからず追いかけるモモは、サーシャがわざと顔を斜めにして、河の騒ぎを見ないようにしていることに気が付いた。
 もちろん、鳥の死体など見ていて気分のよいものではない。けれど、相手は元魔女である。人毛を使って怪しいまじないを使うサーシャだから、死んだ鳥に怯えるよりも、その羽を嬉々として毟る方が当然のように思われて、モモは違和を感じた。
「あれは全部、魔女の死体よ」
 地下鉄の改札をくぐり、やってきた電車に乗ってやっと、サーシャはそう呟いた。
 いつも飄々としている彼女にしては珍しく、落ち着かない様子で鼻息を荒くしている。
「胸糞悪いわ。何だってあんなにも、人前で死んだりしているのかしら」

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。